文科省は狂っているとしか思えない。学力低下で大騒ぎしながら、それに逆行する「人物重視」の入試を取り入れるようなのだ。
ゆとりの教育が学力を低下させたと騒ぎ立てる人がいるが、はたしてそうだろうか。それ以前から、学力は低下の一途をたどっていたのだ。もし、異論があれば、ゆとり世代前の中学、高校の学習参考書を見ればいい。文科省のオエライさんが使っていたものとは易しい内容であることがわかるはずだ。実際、ぼくも、もう退職した元教師に訊ねたところ、「あんたらが使っていたのが、後輩の彼らには難し過ぎた」とおっしゃった。
以前、学校で「個性の尊重」をよく口にしていた。個性を尊重することを謳い、校則違反のルーズソックスを若い教師が注意したら、「これは私の個性です」と言われ、何も言えなかったというバカなケースもあるとか。個性なんてものは抑えても出てくるものではないのか。学校では個性よりも、まず、やるべきことをやるよう求めてしかるべきなのだ。そこに個性を持ち込むから現場が混乱した。それは「人物重視」も同じこと。ボランティアをしました、とか、それはいいんだけれど、純粋にボランティアに取り組んでいる若い人たちにとっては、いい迷惑ではないのか。文科省は現場のことを一切考えないで、自分たちが仕事をしているフリをする。
どうにかならいのか。
ゆとりの教育が学力を低下させたと騒ぎ立てる人がいるが、はたしてそうだろうか。それ以前から、学力は低下の一途をたどっていたのだ。もし、異論があれば、ゆとり世代前の中学、高校の学習参考書を見ればいい。文科省のオエライさんが使っていたものとは易しい内容であることがわかるはずだ。実際、ぼくも、もう退職した元教師に訊ねたところ、「あんたらが使っていたのが、後輩の彼らには難し過ぎた」とおっしゃった。
以前、学校で「個性の尊重」をよく口にしていた。個性を尊重することを謳い、校則違反のルーズソックスを若い教師が注意したら、「これは私の個性です」と言われ、何も言えなかったというバカなケースもあるとか。個性なんてものは抑えても出てくるものではないのか。学校では個性よりも、まず、やるべきことをやるよう求めてしかるべきなのだ。そこに個性を持ち込むから現場が混乱した。それは「人物重視」も同じこと。ボランティアをしました、とか、それはいいんだけれど、純粋にボランティアに取り組んでいる若い人たちにとっては、いい迷惑ではないのか。文科省は現場のことを一切考えないで、自分たちが仕事をしているフリをする。
どうにかならいのか。