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「本統の百姓になる」の「百姓」とは?(農民芸術)

2018-10-30 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
 さて、二つの新聞記事<*1>によって、
 賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」とは、「当時珍しかった花卉の園芸」や「当時珍しかった洋菜の栽培」が必要条件であった。
と言えることに私は気付いたのだが、これらの記事に基づいて、もう一つの観点から次のことを考えてみた。それは「芸術」の観点からである。

 まず、大正15年4月1日付『岩手日報』の記事からは、
   (3) 半年ぐらゐは花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたい。
   (5) レコードコンサートも月一囘位もよほしたい。

が、昭和2年2月1日付『岩手日報』からは、
(e) 農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行く。農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画である。
が挙げられる。そして、レコードコンサートやオーケストラ活動(バンド活動)は実際に行われたという伊藤忠一の証言等がある。それからまた、農民劇の上演は、それを示す証言等は見つからないからなされたとは言えないが、準備のようなことはなされていた<*2>。
 したがって、「羅須地人協会時代」の賢治には「いわゆる百姓としての仕事」はほとんど見るべきものがないことが先に分かったが、それに較べれば「芸術活動」はそれなりには実践されていたと判断できる。

 すると思い出すのが、以前〝賢治・家の光・犬田卯・佐伯郁郎〟で述べた次のことである。
 そして板垣氏(板垣邦子氏)は続けて同書で、
 農民芸術の振興
 芸術については農民文学・農民劇・農民美術に関する記事が多く、寄稿者や座談会出席者として犬田卯、佐伯郁郎、白鳥省吾、中村星湖、渋谷栄一ら当時活発な運動を展開していた農民文芸会のメンバーがしばしば登場し、なかでも犬田卯の活躍がめだっている。
            <『昭和戦前・戦中期の農村生活』』(板垣邦子著、三嶺書房)、20p~>
とも述べており、農民芸術に関する『家の光』における寄稿者等には犬田卯、佐伯郁郎、白鳥省吾等がいて、中でも犬田卯の活躍が目立っていることはこれまた当時の雑誌『家の光』を見てみれば直ぐにわかる(巻末資料『犬田卯等の作品リスト』参照)。
 一方で、時代が大正に入るとおびただしい数の雑誌が多くの大衆芸術を生み、「民衆芸術論」をより一層発展せしめたというし、農民文学運動はそのような時代背景の下に発生していた(『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)、49p~)という。つまり、この時代は「民衆芸術」が勃興し、それに伴って「農民文学運動」や「農民芸術運動」も盛り上がっていったと言える。そして前掲書で板垣氏が言う通り、第一次世界大戦後の不況により農村は経済的な打撃を受けた上に、青年男女の都会集中で農村は荒廃する一方だったから、それらの運動は、「退廃に堕した都会文化への憧憬を捨てて健全な農村文化を築くべく盛り上がった運動だった」と言えそうだ。
 実際、例えば、白鳥省吾を始めとする「民衆詩派」(ただし世間は白鳥省吾を農民詩人と見ていた節もある)の詩人等が活躍し、犬田等が取り組んだ「農民文芸運動」では犬田のみならず、その一環として佐伯郁郎が先頭に立って「農民詩」の啓蒙をし、あるいは、『野良に叫ぶ』を出版した渋谷定輔の農民詩集が反響を巻き起こしていた時代でもあった。他にも、「黒耀会」の下で民衆美術運動を始めた望月桂、同様旺盛な「農民美術運動」を行った山本鼎、そして土田杏村等がおり、機構や組織としてはこの土田の『信濃自由大学』、賢治の『羅須地人協会』、松田甚次郎の『最上共働村塾』、はたまた、あの千葉恭の『研郷会』等があったということになろう。
 そこで逆からこの時代を眺めてみると、『農民芸術概論』は賢治の全くのオリジナルであったというわけではなくて、当時澎湃として起こっていた「民衆芸術」のうねりの中で、「農民文学運動」や「農民芸術運動」を体系化・理論化しようとした一つが「農民文芸会」の『農民文芸十六講』であり、そして賢治の『農民芸術概論綱要』もその一つであると見ることができるのではなかろうか。つまり『農民芸術概論綱要』も「同時代性」から生まれた一つの産物であり、延いては賢治、犬田卯、佐伯郁郎、「農民文芸会」そして『家の光』等は皆強い相似性があると言える。
  
 そこで話を元に戻せば、「羅須地人協会時代」の賢治は「耕作にも従事し生活即ち藝術の生がい」と言っていたように、「百姓」と「芸術」とは切り離せないものであると考えていて、賢治の言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」とは、「芸術」も一つの必要条件であると賢治は認識していた、とほぼ言えそうだ。しかも、『新校本年譜』によれば「羅須地人協会時代」大正15年6月の項に、
    このころ「農民藝術概論綱要」を書く。
とあることに鑑みれば、
 賢治の言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」とは、「農民芸術」も一つの必要条件であると賢治は認識していた。
と断言してもいいだろう。
 なお、「農民と芸術」については賢治独りだけが考えていたわけではなく、当時はこのことについてはいろいろな人があれこれ考え、しかもあちこちで実践されていた時代であったという「同時代性」の影響も忘れてはならないということになるだろう。

 さりながら、賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」のための必要条件である「農民芸術」が、先に述べた程度のものであったとすればあまりにも心許ないものであることは自明。となれば、次は、当時の賢治自身が「農民芸術」に関わってどのような「創作活動」をしていたのかを調べる必要がある。

<*1:投稿者註> 
 大正15年4月1日付『岩手日報』のあの記事、
   新しい農村の建設に努力する
         花巻農學校を辞した宮澤先生
 花巻川口町宮澤政治(ママ)郎氏長男賢治(二八(ママ))氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農村の建設に努力することになつたきのふ宮澤氏を訪ねると

現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思ってゐます そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです

と語つてゐた、氏は盛中卒業後盛岡高等農林學校に入学し同校を優等で卒業したまじめな人格者である
              <『岩手日報』(大正15年4月1日付)の三面より>
に、もう一つが、昭和2年2月1日付『岩手日報』のあの記事、
 農村文化の創造に努む
         花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
にだ。

 そこで次に、賢治が記者に語ったであろう前者の報道内容を個条書に書き直してみると、
(1) 現代の農村は経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へらる。
(2) そこで東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したい。
(3) 半年ぐらゐは花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたい。
(4) そこで幻燈會はまい週のやうに開さいする。
(5) レコードコンサートも月一囘位もよほしたい。
(6) 同志二十名ばかりいる。
(7) 自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないたい。
(8) しづかな生活をつづけて行く。
となる。
 一方、同様に後者の報道内容を個条書きに書き直してみると、
(a) 花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力する。
(b) 地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのが主眼である。
(c) 同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活にたち返らうとするものである。
(d) これがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り物々交換の制度を取り入れる。
(e) 農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行く。農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画である。
となる。

<*2:投稿者註> 「羅須地人協会」の会員だった高橋光一が、当時の賢治ことを、
  藝事の好きな人でした。興に乗ってくると、先に立って、「それ、神樂やれ。」の「それ、しばいやるべし。」だのと賑やかなものでした。
            〈『宮澤賢治研究』(筑摩書房、昭和44年)283p〉
と追想している。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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