《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
会の名称変更 さて『農民文芸十六講』について調べる前に、懸案事項であった前回の「「農民文芸研究会」はいつからか「農民文芸会」という名称となっていった」について、その時期等がわかったのでまずそのことについて少し触れておきたい。『現代文学の底流』の中で南雲氏が次のように述べていたからだ。 その後この農民文学研究会は、佐伯郁郎・中山議秀(のちの中山義秀)、和田傳・足帆図南次など早大出身の気鋭のメンバーを加え活発な活動を展開、大正年一〇月に「農民文芸会」と名を改め、それまでの研究成果を『農民文芸十六講』として集成し、上梓する。
<『現代文学の底流』(南雲道雄著、オリジン)348pより>というわけで、残念ながら〝大正年一〇月に〟となっていて、肝心の何年かがこのままではわからないが、前後の文脈から〝大正一五年一〇月〟と判断できた。というのは、南雲氏は同書に続けて次のように書いているからである。
この『農民文芸十六講』に加藤武雄の名は見えないが、これに先立って犬田卯・加藤武雄共著による『農民文芸の研究』(同一五年八月、春陽堂)が刊行されている。
ということだから、会の名称変更はこの時期以降となるので、『十六講』の出版が大正15年であることを考えれば、会の名称変更も同年とならざるを得ず〝大正一五年一〇月〟と判断できるからである。なお、この時期と、次項で述べるように『農民文芸十六講』の刊行時期は全く同じだから、大正15年10月にその会は『農民文芸十六講』を出版したのと相前後して名を「農民文芸会」と改称したということになりそうだ。『農民文芸十六講』の中身
さて、では肝心の『農民文芸十六講』であるが、このことに関して小田切秀雄は、
大正一五年一〇月に春陽堂から刊行された大冊『農民文芸十六講』という本は、その二年半ほど前から活動をはじめた〝農民文芸会〟が、日本にはじめて成立した農民文学組織としての責任と情熱と努力によってまとめ上げた本で、農民文学の原理論、現代社会との関係、それまでの日本の農民文学の歴史的なくわしい概念、英仏独露その他の国での近代農民文学作品の展望、農民文学運動理論、等々の全局面にわたって、当時として文学界での最高水準に属する創造的な仕事の一つとなっていった。この本は、いまでもその生命を失っておらず、詳細な農民文学史的叙述と理論的展開との包括的なものとして、まづついて見るべき本となっている。
<『日本近代文学の思想と状況』(小田切秀雄著、法政大学出版局)103pより>という評価をしているから、この小田切の評価に従うならば『農民文芸十六講』の果たした役割はすこぶる大きかったと言えるだろう。実際、当時澎湃として湧き起こっていた「農民文芸運動の最初の集大成である」と中村星湖は評価している<*1>ともいう。
次に、『農民文芸十六講』の分担であるが、犬田卯自身が次のように記述している。
さて分担項目であるが、これは大体、各員各自がこれまでの研究を進めた方面を各自受け持って貰ううことにし、吉江、中村、加藤等の諸先輩には顧問格になってもらい、言わば仕事がしたくてうずうずしている新人を動員することにした。その故か、早くも原稿は二ヵ月を要せずにしてまとまり、ここに『農民文芸十六講』は十月末に世に出たのである。項目と執筆者は次の如くである。
序にかへて 吉江喬松
第一講 「農民文芸の意義について」 犬田 卯
第二講 「現代社会と農民文芸」 同 上
第三講 「現代日本の農民文芸」 大槻憲二
第四講 「自然主義時代及び以降の農民小説」 五十公野清一
第五講 「フランスに於ける農民文芸」 和田 伝
第六講 「ドイツに於ける郷土文学運動」 大槻憲二
第七講 「露西亜農民文芸」 黒田辰夫
第八講 「波蘭及びスカンジナビア農民文芸」 湯浅真生
第九講 「英国の農民文芸」 大槻憲二
第十講 「愛蘭農民文芸」 足帆図南次
第十一講「代表的農民作家」
(このうち「長塚節、エミイル・ギヨマン」を犬田卯執筆)
第十二講「農民小説名作梗概」
(このうち「エミイル・ギヨマン「ある百姓の生涯」」を犬田卯執筆)
第十三講「農民劇」 湯浅真生
第十四講「農民詩」 佐伯郁郎
第十五講「民謡」 佐伯郁郎
第十六講「農民文芸の運動と其方向」 犬田 卯
<『日本農民文学史』(小田切秀雄編・犬田卯著、農文協)41pより>序にかへて 吉江喬松
第一講 「農民文芸の意義について」 犬田 卯
第二講 「現代社会と農民文芸」 同 上
第三講 「現代日本の農民文芸」 大槻憲二
第四講 「自然主義時代及び以降の農民小説」 五十公野清一
第五講 「フランスに於ける農民文芸」 和田 伝
第六講 「ドイツに於ける郷土文学運動」 大槻憲二
第七講 「露西亜農民文芸」 黒田辰夫
第八講 「波蘭及びスカンジナビア農民文芸」 湯浅真生
第九講 「英国の農民文芸」 大槻憲二
第十講 「愛蘭農民文芸」 足帆図南次
第十一講「代表的農民作家」
(このうち「長塚節、エミイル・ギヨマン」を犬田卯執筆)
第十二講「農民小説名作梗概」
(このうち「エミイル・ギヨマン「ある百姓の生涯」」を犬田卯執筆)
第十三講「農民劇」 湯浅真生
第十四講「農民詩」 佐伯郁郎
第十五講「民謡」 佐伯郁郎
第十六講「農民文芸の運動と其方向」 犬田 卯
とすれば、この600頁にも及ぶと聞く大冊『農民文芸十六講』の16講中、犬田卯は5講分もを担当していたことになる。
思考実験〈その頃『農民芸術概論綱要』まだ未完成〉
ここで少し思考実験を試みたい。
さて、
・『農民文芸十六講』の発行は大正15年10月である。
・ 〃 の原稿は2ヶ月を要せずまとまった。
・600頁にも及ぶと聞く大冊『農民文芸十六講』の16講中、犬田卯は5講分もを担当していた。
ということだから、大正15年の夏頃の犬田卯はこの『農民文芸十六講』の出版準備のために大わらわであったであろうことは明らか。翻ってみれば、大正15年7月末の白鳥・犬田・佐伯の来県に関する佐伯郁郎の証言「折角の機会、殊にも、犬田氏は多忙中を、わざわざやって来てくれたのに対して、只一ヶ所の講演は実に残念ではあった」を思い起こせば、まさしくこのことと符合する。
だから、もちろん白鳥・犬田・佐伯の三人は啄木会主催の『農民文会盛岡講演会』のために来県したのだが、とりわけ多忙だった犬田卯がなぜわざわざ来県したのかというと、実はその他にも目的があった。それは、犬田卯(佐伯郁郎をも含む)は賢治が当時「農民詩」と見られる詩を詠んでいるということを知ったので、「農民文芸運動」を推し進めていた犬田等は折角盛岡まで行くのであればその帰途に花巻に立ち寄り、賢治と是非とも会ってみたいと思い立った。
また一方の賢治は賢治で、当時の犬田卯等の「農民文芸運動」に興味を抱いていた。それは、例えば雑誌『家の光』や『早稲田文學』等を通じてその運動をある程度知っていたし、さらには、
宮澤賢治―宮澤安太郎(賢治の従兄弟、明治35年生)―佐伯郁郎(明治34年生)―犬田卯<*2>
賢治―阿部芳太郎―小川芋銭―犬田卯<*3>
という繋がりからもあったからだ。そこで、賢治は白鳥等の下根子桜の別宅訪問をすんなりと承諾した。
ところが、犬田卯等の『農民文芸十六講』発刊の取組を、その訪問日の直前に宮澤安太郎を通じて賢治はたまたま聞き知った(それを7月25日以前より遙か前に知っていた賢治ならば始めから会う約束などはしなかったであろう)から、急遽訪問を拒絶することとし、『彼等に會ふのは私は心をにごすことになるし、また會ふたところでどうにもならないから彼等のためにも私のためにも會はぬ方が良いようだから』と千葉恭に言い含めて断りの使いに出した。
そこで、
私は、賢治が面会を謝絶した理由はどちらかというと白鳥の方にではなくて、やはり犬田卯(佐伯郁郎も含む)の方によりあったのではなかろうかとますます強く思うようになってきた。その謝絶の理由は、『農民文芸十六講』を発行してその中で農民文芸の理論を構築して公にしようとしていた犬田卯(あるいは「農民文芸会」)に対して、同様に自身も農民芸術に関する理論を構築しようとしていた賢治としてはその影響を受けるのを嫌がったためであり、そのような動きがあることを直前に知った賢治は急遽面会を謝絶した可能性があったのではなかろうか。
と現時点では考えている。それと同時に、『農民芸術概論綱要』が書かれたのがはたして巷間言われているような大正15年6月頃なのだろうかという疑問を私はあらためて抱く。つまり、『新校本年譜』には、
六月 このころ「農民芸術概論綱要」を書く。
となってはいるが、これはあくまでも推定であるということが先にわかった私からすれば、この面会謝絶の7月25日頃は実は『農民芸術概論綱要』まだ未完成で推敲中だったから、賢治は『彼等に會ふのは私は心をにごすことになるし、また會ふたところでどうにもならないから彼等のためにも私のためにも會はぬ方が良いようだから』という理由で、犬田等の賢治宅訪問をドタキャンしたということを私は否定できない。
ただし、以上はあくまでも私の単なる思考実験である。
<*1:註>
中村星湖をして「単に農民文芸研究会の研究結果の集大成であるばかりでなく、わが国の農民文芸運動の最初の集大成として長く記念さるべきもの、云々」といわしめた『農民文芸十六講』。
(『日本農民文学史』(小田切秀雄編・犬田卯著、農文協)41pより)<*2:註> ちなみに、佐伯郁郎をよく知るある方から、
例の大正15年7月25日面会謝絶に関しては、賢治と白鳥達が会ったらいいのではなかろうかと周旋し、間を取り持ったのが宮澤安太郎であるようだ。実際この時安太郎も花巻に帰っていたという事実もある。そして一方で、宮澤安太郎と佐伯郁郎は在京県人会でお互いに交流があったようだ。
ということを私は以前に聞いていたことがある。 <*3:註> 『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)の「受信人索引」によれば、
<阿部芳太郎(あべ よしたろう)>
明25・12・5~昭和21・2・5
画家を志して出京し、小川芋銭に師事したが、これは生計の資とはならないためい帰郷し…動植物を愛し、賢治との交際を持った。
とあった。ついつい犬田卯と賢治のつながりは、明25・12・5~昭和21・2・5
画家を志して出京し、小川芋銭に師事したが、これは生計の資とはならないためい帰郷し…動植物を愛し、賢治との交際を持った。
賢治―宮澤安太郎―佐伯郁郎―犬田卯
とばかり思っていたが、
賢治―阿部芳太郎―小川芋銭―犬田卯
というルートもあったのかもしれない。どうやら、賢治と犬田をつなぐルートは複数あったようだ。
続きへ。
前へ 。
“『大正15年の宮澤賢治』の目次”に移る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
【『宮澤賢治と高瀬露』出版のご案内】
その概要を知りたい方ははここをクリックして下さい。
『盛岡より好摩駅まで』
「・・・石川啄木の郷重(里)渋民村を訪ねやうとは、東京を發つて盛岡に着いても予定に入れてゐなかつたが、盛岡の講演会の主催者が啄木会の連中なので、うつかりして土地名物の原敬の大樹院の墓さへ忘れてゐた私に、原敬のことはおくびにもださず、『明日は渋民村に行くことにしませう』と事後承知のやうな調子で、渋民村にゆくことをきめてゐたのである。成程、渋民村は盛岡から近いのだつたと、私は予定しなかつただけに喜びも大きかつた。
大正十五年七月二十六日の朝八時十分盛岡発、・・以下略」
啄木会のメンバー以下のように書かれてもいる。・・・ 阿部康蔵君は啄木の幼な友達・体量(重)二十五貫の巨体でまだ三十六歳だが頭がだいぶ禿げてゐるので、その特色ある風貌がよく人の注意をひくといふ。その外に職工服の米内一郎君、加藤幹夫君と東京から行った犬田卯、佐伯郁郎の両君と私とである。等々である。尚をここには記されていないが、大正十年七月十六日盛岡の藤澤屋で啄木講演会にでた「土岐哀果氏金田一京助氏江馬修氏三人と渋民村に行く村いっている。白鳥は大正十五年十二月二十日に出版されている本に書いている。一言ではなく少々長くなり失礼した。
こんにちは。折角咲き始めた花巻の桜の花も、この頃の雨や曇りで今一つ寂しそうです。
さて、この度のコメントを拝見いたし、
・小泉一郎の誤記
・フルネームの件
理解いたしました。ありがとうございます。
また、「土岐哀果氏金田一京助氏江馬修氏三人と渋民村に行く…」につきましてもありがとうございました。そこで早速、『啄木・賢治・光太郎』(読売新聞社 盛岡支局)を見なおしてみたところ、この時の講演会の聴衆者は五百人を超え、六十円の収益があったとありましたから、啄木は既に大正10年当時からかなり多くの人々を惹きつけていたのだということを今さらながら知りました。
それでは、これからもいろいろとご教示賜りたいと思っておりますのでどうぞよろしくお願いいたします。
鈴木 守