みちのくの山野草

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「本統の百姓になる」の「百姓」とは?(園芸)

2018-10-28 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
 というわけで、仮説「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」が検証できたわけだが、となれば、前回最後の方で、
 賢治の言っていた「本統の百姓になる」の「百姓」とは、当時日常的に使われていた「百姓」とは異なるものである、ということもまた同時に明らかとなったとも言える。ついては、賢治の言っていた「本統の百姓になる」の「百姓」とはどのような百姓であったのかということを、次に考えねばならない。
と私が述べたことが新たな課題となる。

 そこでここまでの考察を振り返って見れば、賢治が下根子桜に移り住んでから実際にどんな作物を育てていたかについては、農業に詳しい佐々木多喜雄氏が、
 開墾した畑には、主に洋菜で当時まだ一般的でなく珍しかったチシャ、セロリ、アスパラガス、パセリ、ケール、ラディッシュ、白菜など、果菜ではトマト、メロンであった。庭の花では洋花を中心としたヒヤシンス、グラジオラス、チューリップなどであった(佐々木2006b)。一部、トウモロコシ、ジャガイモも植えたようである(堀尾1991a)。
 このように栽培物の多くが主食に利用できないものであるところに、賢治の農業の特色があるといえ、このことが一口で示せば、一応(投稿者註:精確には原典では傍点がついている)の農業ということである。
              〈『北農 第75巻第2号』(北農会2008.4)72p~〉
と関連する資料等を渉猟した上で論じていた。

 しかし、賢治が〈本統の百姓〉たらんとしていたのであれば、私たちの常識で以て判断すれば、松田甚次郎にそう迫ったのと同様に賢治も小作人にならねばならなかったはずである。当時の大半の貧しい農民になること、せめて出来るだけそれに近い営為をせねばならなかったはずだ。ところが、「羅須地人協会時代」の賢治は、佐々木氏が上掲のように述べているように、賢治自身は主食となる米を全く作らなかった。この一点だけからしてもかなりのことが見えてくる。
 ちなみに、賢治の言うところの〈本統の百姓〉とは、賢治は松田甚次郎に、
 眞人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として眞に生くるには、先づ眞の小作人たることだ。小作人となつて粗衣粗食、過勞と更に加わる社會的經濟的壓迫を體驗することが出來たら、必ず人間の眞面目が顯現される。
           〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)2p~〉
と「訓へ」たらしいから、もしこの「訓へ」が事実であったとするならば、〈本統の百姓〉とは小作人のことを意味するはずだ。がしかし、もちろん賢治はそうはならなかったのだから、賢治はダブルスタンダードである(まあ、その頓着しないところが賢治の凄さかもしれないが)。いずれ賢治は、もともと小作人になることなどは端から考えていなかったのだということになろう。

 だから、佐々木氏も次のような疑問、
 主食を栽培せず、花中心の栽培で生計を立てることは、農を業とする生業が農業と考えるのなら、当時の実状からは農業とは言えないのではなかろうか。
を投げかけ、
 大して売れもしない花栽培は、お金持ちの息子だから出来ることである。
              〈同73p~〉
と一刀両断していることは当然であろう。
 逆にいえば、このような栽培物を育てるということが、賢治の言っていたところの〈本統の百姓になる〉ということの一つの必要条件であると認識していた蓋然性が極めて高い。もちろん、当時日常的に使われていた「百姓」とは程遠いものであるのだが。

 そして、賢治がそう認識していた蓋然性が高いことを、次のことが裏付けてくれる。それは、昭和3年6月、いわゆる農繁期の滞京の仕方が、である。
 巷間、この昭和3年6月の上京の主たる「目的」は、伊藤七雄の大島農芸学校設立への助言あるいは伊藤ちゑとの見合いのためなどと云われているようだが、もしそうであったとするならば私にはある疑問が湧いてくる。
 それはまず第一に、なぜ、賢治は「目的」をなし終えたならば直ぐ農繁期の花巻に戻らなかったのだろうか。この時期、地元花巻では「猫の手も借りたい」といわれる田植え等の農繁期だから、農聖とも言われている賢治であるならばそれが気掛かりなので「大島行」を終えたならば即帰花したと思いきやそうはせずに、浮世絵鑑賞に、そして連日のように観劇に出かけているからである。ちなみに、賢治が後程澤里武治に宛てた書簡(243)の中で「…六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず…」と書いているということだから、その様な観劇をしたということをこれを傍証している。
 それからもう一つ、「大島行」のを終えた後に、なぜ「MEMO FLORA手帳」に手間暇かけてのスケッチ等をしていたのだろうか。土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」〈『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収〉によれば、賢治は帝国図書館に通い、総ページ数110頁の同手帳のうちの39頁分に、『BRITISHU FLORAL DECORATION』から原文抜粋筆写及び写真のスケッチをしていたという。賢治は「大島行」という目的をなし終えたというのにすぐには帰花せずに、その後も暫し滞京して火急のこととは思えない「MEMO FLORA手帳」へのスケッチ等をしていたということになる。
 そして土岐氏は、同論文の最後の方で、
 このように見てくると、「MEMO FLORA手帳」は、帰花後の園芸活動に役立てるためにわざわざ用意した一冊の手帳に、かねてより考えていた園芸植物についての新しい情報を書き込み、さらに、図書館で発見した夢あふれる花の装飾についての新情報を書き加えた実用のための手帳であったと考えてよいのではないだろうか。
            『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)97p〉
という見方を述べていた。

 そこで私は、やはり賢治は米をつくることなどは元々考えておらず、佐々木氏が「庭の花では洋花を中心としたヒヤシンス、グラジオラス、チューリップなどであった」と言っているように、昭和3年6月当時も相変わらず園芸活動が賢治の〈百姓〉仕事の大きな部分を占めていたのではなかろうかと、私は想像したくなる。
 また、そもそも賢治がこの時大島を訪ねた大きな目的は、
 (伊藤七雄の)胸の病はドイツ留学中にえたものであったが、その病気の療養に伊豆大島に渡った。土地も買い、家も建てたという徹底したもので、ここで病がいくらか軽くなるにしたがって、園芸学校を建設することになり、宮沢賢治の智慧をかりることになったのである。
              <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)191pより>
ということだから、これが事実であれば賢治は園芸に詳しくかつ関心が強かったと推断できるから、この点から言っても、賢治の〈本統の百姓〉というものには「園芸」が欠かせない、必要条件だったと言えそうだ。
 そしてまた、下根子桜撤退後の昭和5年の、賢治の病状がやや回復した時も、園芸に熱中していたことは周知のとおりである。

 したがって、賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」とは、一つ、まずは少なくとも園芸をやることが必要条件であったことがほぼ明らかになった。

<*1:投稿者註> ここでいう「百姓」とは、賢治が下根子桜に住んでいた当時の人たちが日常的に使っていた意味での「百姓」のことであり、端的に言えば、当時農家の6割前後を占めていた「自小作+小作」農家の農民のことである。

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               電話 0198-24-9813

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