みちのくの山野草

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「羅須地人協会」の建物を見て腹を括った(12/17)

2018-12-19 12:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
 この12月17日、私は花巻農業高校に向かった。それは、「羅須地人協会の建物」をもう一度じっくり見直してみよう、そうすればおのずから決着が着くはずだと思い立ったからだ。
《1 》(平成30年12月17日撮影)

《2 》(平成30年12月17日撮影)

 まずは、建物の周りをゆっくりと一周してみよう。
《3 》(平成30年12月17日撮影)

《4 》(平成30年12月17日撮影)

《5 》(平成30年12月17日撮影)

《6 》(平成30年12月17日撮影)

《7 》(平成30年12月17日撮影)

《8 》(平成30年12月17日撮影)

《9 》(平成30年12月17日撮影)

 そして改めてしかと認識し直したことは、かなり立派な建物だということがまず第一点目である。もちろんこの建物そのものが下根子桜の賢治詩碑のある台地に建っていたわけではない。これは下根子桜にあった建物を修復して復元したものである。その経緯は以下の
《10 案内板》(平成30年12月17日撮影)

にあるとおりで、なおかつ、
 一部分はなおされてところもありましたが、大体昔のままの造りで学校の校内になる場所に健在だった……①
という。
 ちなみに、下根子桜にあった当時の「羅須地人協会の建物」は、   
《11 「賢治詩碑」脇の案内板の写真》(平成30年12月17日撮影)

《12 『宮沢賢治―地人への道』(佐藤成編著、川嶋印刷)所収の写真》

はかくの如しだから、〝①〟はそのとおりであり、下根子桜にあった「羅須地人協会の建物」はかなり立派な建物であったと判断できる。つまり、
 下根子桜にあった「羅須地人協会の建物」(宮澤家の別宅)は二階建ての、「小サナ萓ブキノ小屋」などでは全くなくて、ほぼ間違いなく柾葺きの屋根からなるかなり立派ででかい建物だった。
ということが導かれる。
 しかも、それは外観だけでなく、
《13 「羅須地人協会の間取り図」》

     〈『宮沢賢治―地人への道』(佐藤成編著、川嶋印刷)〉
《14 「詩碑付近略図」》

     〈『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)〉
からは、建物の中も立派なものであったということが容易に窺える(過去に、私も花巻農業高校にあるこの建物の中に入ってみたことがあるが、かなり立派な造作であった)。

 そこで私は今回を以て腹を括った。それは、私のあるイメージを完全にリセットすることをである。実は、なんだかんだ言っても私には、賢治が「羅須地人協会時代」に住んでいた住まいは、「雨ニモマケズ」のあの連「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」が頭の中に染み込んでいて、どうも「小さな萱葺きの小屋」のイメージがつきまとう。がしかし、今後はそれを頭の中から完全消去してしまい、賢治が当時実際に住んでいた住まいはそれとはほぼ真逆の、かなり立派で瀟洒な二階建ての家だったということを、新たに頭の中にインプットし直した。
 するとおのずから見えてくることがある。それは例えば、これにかてて加えて、当時であれば高級車に相当する「レアカー」も賢治は持っていたのだから、この建物と「レアカー」だけを以てしても、周りの農民から賢治はかなり訝しく思われていたことはもはや間違いないのだということが、である。

 それから改めてしかと認識し直した第二点目は、やはり賢治はこの時期に「羅須地人協会の建物」にはほぼ住んでいなかったのだ、という事実もまた完全に受け容れねばならないのだということを、である。それは、私は先に、〝下根子桜(12/9、ハリギリ無惨)〟において、
 つまり、「羅須地人協会時代」とは大正15年の4月~昭和3年8月の約2年4ヶ月のことだから、この時代のいずれの12月にも賢治は「羅須地人協会の建物」の中で暮らしたことはまずなかったと言えるのである。もちろん、「羅須地人協会時代」以外に賢治はここで暮らしてはいないから、賢治はこの建物の中で12月のこの時期を過ごしたことは彼の人生の中で一度もほぼなかったと言えるであろう。
と述べた訳だが、理屈としては納得していたのだがいまいち気持ちが揺らいでいた。しかし、この建物を前にして私はやっとこれでいいのだ、と腹を括った。

 私はこの12月17日、花巻農業高校の構内に建つ「羅須地人協会の建物」を目の前に見ながら、この二つがはっきりとわかった(ということにした)のだった。これで腹はもう括った。 

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               電話 0198-24-9813

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