みちのくの山野草

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2820 賢治、家の光、犬田の相似性(#30)

2012-08-12 08:00:00 | 賢治・卯・家の光の相似性
 前回、『土田杏村全集 ⅩⅣ』の中に「我国に於ける自由大学運動に就いて」というタイトルの随筆があるということを述べたが、今回はそれについて少し触れてみたい。
信濃自由大学の設立
 それは以下のようにして始まるものであった。
    
 この運動は、やつとその緒口についた許りで、実績としては何一つ報告すべきものを持つてゐません。私はせめてその成績を一年だけでも挙げて見て、その上で社会に報告しようと思つてゐたのであります。併し時勢はもうさうして躊躇してゐることを許しません。他方でも同様の計画をやりたいから、輪郭だけでも報告せよと命ぜられます。そこで本号を借りて、計画の大体だけを報告することに致しました。…(略)…
 自由大学は一個の大学拡張運動である。併しそれは夏期になつてあちこちで開かれている短期講習会などとはまるで性質が違ふ。これはこれとして、従来全く日本にはなかつた新しい教育様式を始めたことになつて来たのです。
 そういえば菊池忠二氏によれば、大正十四年に
 県教育委員会の夏期自由大学が、盛岡(八月十九日~二十一日)と水沢(八月二十二日~二十四日)で三日ずつ開かれ、桑木巌翼博士が「近世哲学思想」「現代の哲学」、永井潜博士が「科学思想の発達」「生理学概論」をそれぞれ講演している。
<『私の賢治散歩(上巻)』(菊池忠二著)254pより>
ということであり、当時岩手でも「自由大学」という名の講座が夏期に開講されていたのであった。ただし土田杏村達が始めたものはそれとは似て非なるものだということのようだが。
 続けて、土田は次のようにその運動の発生の経緯を語ってる。
    
 大正九年の秋、私は長野県小県郡神川村――山形鼎が農民美術の経営をしてゐられた村――を中心としての青年達に招かれて哲学の講習に参りました。村の青年達が哲学の講習会を開く。非常に喫驚したのである、が行つて見ると成るほどと思つた。それの計画を立てた、中心になつてゐる二人の青年は、家業に熱心なのは言ふまでもないが、その忙しい家業のひまひまによく読書をしてゐる。羨ましいほどの読書をしてゐる。…(略)…
 これ以後、この講義を一つの連続的の講義にするといふことを皆んなで決議いたしました。…(略)…本年の春私は又上田市へ出かけて、高等女学校を会場と致し、又五日間の講義を続けました。…(略)…聴講生は前年以上の多数で、大変の成功であり、発起人の人達も大悦びといふ訳でした。
 この時に小県哲学会といふものが生まれました。一地方で哲学会が生まれるといふのは大したものだと思ひます。
 そういえば、山形鼎は以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#18)〟の中の〝民衆美術運動〟で登場してきた人物であり、小松隆二氏が「望月に遅れて農民美術運動に着手した同郷の山本鼎は、その旺盛な活動とともに全国的にも著名であるが、その評価に比すれば、望月に対する評価はまだ無に等しい」と評していた人物だった。多分このような素地が当地にはあったからそこに〝小県哲学会〟が開かれ、さらに〝自由大学〟が開かれたのであろう。
 土田は続けて次のように述べている。
    
 信濃自由大学はかうした準備運動のあつたあとで静かに計画せれました。そして今年の九月から来年の四月まで、それの第一学年が開始せられることになりました。設立の趣意書を転載すると次の如きものです。
   信濃自由大学趣意書
設立の趣旨
 学問の中央集権的傾向を打破し、地方一般の民衆がその産業に従事しつつ、自由に大学教育を受くる機会を得んがために、総合長期の講座を開き、主として文化学的研究を為し、何人にも公開することを目的と致しますが、従来の夏期講習等に於ける如く断片短期的の研究となることなく統一連続的の研究に努め、且つ開講時以外に於ける自学自習の指導にも関与することを努めます。
この土田杏村の随筆は『文化運動』の大正11年1月号に載っていたものだというから「信濃自由大学」は大正10年に設立されたということになろう(昭和3年には「上田自由大学」と改称)。
 私からすれば、特に目を引いたのがその聴講生の資格であり、
 講義を理解し得る各自の自信に信頼して、聴講生の資格に一切の制限を置かず、且つ男たると女たるとを問ひません。単に申込を以て聴講生の資格を得ます。
というものであった。まさしく「自由大学」の名にある〝自由〟にふさわしい対応であると思う。
 なお、開講の時期については次のことを考慮したと土田杏村は註釈していた。
 開講の時期は、その土地の事情によつていろいろと変りませう。これは長野県の養蚕の事情を顧慮し、他の農閑期を利用した積もりです。
<いずれも『土田杏村全集 ⅩⅣ』(土田杏村著、第一書房)301p~より>
思慮深い人だ、杏村は。
 一方では、一般の大学と比べれば開講期間が短いから、普通の大学なら一年をかけて行うような講座でさえも短期間、1週間ほどで終わらせてしまったものもあったと聞くが、この点でも羅須地人協会で賢治が行った講義に似ていたようだ。因みに賢治の講座について伊藤忠一は「化学なんか一年もかかるものは五時間ぐらいですませたいお気持ちであったようだ」と証言している(『宮沢賢治―地人への道』(佐藤成編著)280pより) 

 さて、しばらく犬田卯等のことから離れたものになっているからそろそろ元に戻らねば…。

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