宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

287 「宮澤先生を追つて(二)」

2011年02月15日 | 賢治と一緒に暮らした男
 では今回は『 四次元』(宮沢賢治友の会)の5号に戻って、そこに載っている千葉恭の「宮澤先生を追ひて(二)」を見てみたい。

1.穀物検査所を辞めた千葉恭
 先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。
 家に歸ることについては先生は非常に喜んでくれました。家には年寄ばかりで朝から晩までせつせつと働き續けるのを見てはぢつとしてはゐられなくなり、私は元氣を出して働き出したのです。田舎の朝の空氣一番先に胸一杯吸ふのはやつぱり百姓だ!私もその百姓として先生の教へを乞ひつゝ働きつゞけて美しい農民の生活に入つて行こうと決心したのです。鋤を空高く振り上げる力の心よさ!水田が八反歩、畑五反歩を耕作する小さな百姓だが何かしら大きな希望が見出した様な氣がされました。作物に對する愛情はだれも知り得ない美しい世界です。春の田打から田植えの土のかおりに浸りながら、暖かい陽ざしを浴び農業の研究的なことを語る樂しさ、伸び行く作物にしみじみと親しさを感じ味はひ得るところに農民の尊さと神聖さのあることを發見しました。
 その年の私の村では農會廢止論が起こつたり、また年の離農者が増して來るばかりで、私が考へたやうな理想の農村や先生が語る理想の農村は、破かいされて行くばかりなのです。かうした農村を如何にして是正しようかと考へさせられました。味氣ない農村だ農業だと年の離村して行くのは私が百姓をやり出してからの苦悩の最大のものであつたのです。それを除くために如何なる方法を講ずべきかと、私は十日間も考へ抜いた末にやつとその方法を見出したのです。それは實際やつて見て巧く行くか、また逆轉するかは判りませんが先づやつて見ようとしたのです。
 村で農學校を卒業して働いてゐる青年は三十二名もありましたので、稲作も濟んだある夜役場に集まつて、何とか農村日本の美風を保つて行きたいと相談しました。その結果先づ農村は味氣なく殺風景だから、文化による向上で農民の土に親しむ道を講じ、それと共に農會の機能を活發に活動するやう促進させることであると、各人担當研究員として組織し農會を盛り立てゝ行くことゝしました。そして實地農業技術の透徹であり、農業経営の理想化自然と親しむ芽生えの昂揚であることを強調しました。研究會と云ふ名稱の下に組織して水稲関係は水稲の担任者の意見、副業関係は副業担任者意見によつて、農民の働く力を増進させること、それと共に一方年によつて農民劇を、子供には童話會を開催して文化により土に親しみ土地を去る心をおさへることに腐心しました。
    研郷會規則
一、この會は農村の隆盛と技術の向上により理想化し親しみのある農民の集合である。
二、この會は研郷會として事務所を會長宅に置く。
三、この會は事業の遂行のために左のことを行ふ。
 1.各種目の研究を担當する
 2.研究會・座談會・普及會・農民劇・童話會・農事視察・農事調査を開始する
 3.その他必要なる事項
四、この會には農民の誰もが入りうる。
五、この會の事業は奉仕的にやり役員を必要とする。
 1.会長 一名 2.専任役員 四名 3.研究員 三十名 4.修養員 十名 5.幹事 若干名
六、この會は互いに随時集まり必要なる問題につき研究討議するものとす。
七、この會は理想農村の完遂までつゞくること。
  …(中略)…
 一ヶ年の成績は見るべきものがあり、明るい村となつて來たのを見出しました。成績については別の機會にゆづることにします。
 かうした方法で色々の問題が解決して行き、年の離村も苦い顔もなくなり、水稲其他の収穫等も多くなり模範村となつたことだけは記して置きます。

         <『四次元 5号』(宮沢賢治友の会 Mar-50)より>

 さて、千葉が述べているこの追想に関して次の二つのことをここでは述べてみたい。
 その一つ目は、もちろん
 親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。
の部分の解釈に関してである。
 これに続けて
 昭和四年の夏…とうとう役所を去ることになりました。
と千葉は言っているわけだから、素直にこれを受け止めれば千葉が役所を去ったのは昭和4年の夏ということになろう。とすればこの、”一ヶ年の親交”の”一ヶ年”とは”昭和3年の夏~昭和4年の夏の一ヶ年”ということになるはず。
 ところが、賢治は昭和3年の8月初旬には発病してそれ以降は豊沢町の実家に戻っているはずだからこの期間を”親交の一ヶ年”という表現をする訳にはいかない。

 ならば、”親交の一ヶ年”を”昭和4年の夏”と切り離して、”親交の一ヶ年”の部分だけに焦点当てて考えてみることにしよう。”親交の”といえば直ぐに思いつくのは千葉が賢治と一緒に寝泊まりしていたと考えられる大正15年の二人の密接な関係である。ところが、千葉自身はその期間を約半年と言っているから大正15年頃の一ヶ年も”親交の一ヶ年”とは考えにくい。
 すると、”親交の一ヶ年”とは一体何時の期間のことなのだろうか。そしてどのような”親交”だったのだろうか。はたまた、役所を辞した時期はそもそも何時で、それと”親交の一ヶ年”どんな関係があったのだろうか…。理解に苦しむところである。

 述べたいことの二つ目は、松田甚次郎と同じ様に千葉恭もまた地元に戻って帰農し、賢治精神を実践しようとした(賢治が語るような理想の農村に変えてゆこうとした)ということである。なかなか出来ることではない。そしてこれも甚次郎の場合と同様、そのために規約を設けた組織を設立し、農業技術や農村生活の改善・向上、農村文化の振興などに努めて実際それ相応の成果を上げたということであり、そのことに敬意を表したいのである。わけても、そのことにより村の青年が離村することのない明る農村になったという実績に、千葉君なかなかやるじゃないかとエールを送りたい。

2.帰農した千葉恭と賢治
 農業に従事する一方時々先生をお訪ねしては農業経済・土壌・肥料等の問題を教わって歸るのでした。先生は或る時「學校でテニスをやりながら教はる教育ではだめだ!」と、言はれたことがあります。その頃先生は學校を退職されて花巻町在下根子の、北上川に面した大櫻の雑木林の中に、二階建ての小さな家に住んでをられました。そして農民の最低生活を基準に農村を研究し指導しなければならないと、強調されて私にも時々聞かされました。「今迄の農民又は其他の問題でも指導する指導者が間違つてゐた。農民の生活には巾があり、その中間平均を指導の基準として、最低生活者を指導し又最高生活者を指導するのも同じだ。眞劍に指導せんとするには總ての最低生活者を基準として指導すべきである。そして早く進めみんなと近づけて行き、一人ひとりの幸福を滿してはじめて世界の幸福がひらけるのだ!」私にはこの言葉こそ未だに忘れ得ぬものとして胸に烙印となつてゐます。先生は一人で毎日雨が降らふうが風が吹かうが、最低生活に甘んじそれこそ玄米四合と味噌と少しの野菜をたべ、少しばかりの開墾によつて花を作り、作物を取り美しい自然に接することを唯一の希望に、命をかけて勵まれていられたをられたのでした。花も作物も自然を表はすことは同じです。私が百姓をしているのを非常に喜んでお目にかゝつた度に、施肥の方法はどうであつたか?とか、またどういうふうにやつたか?寒さにはどういふ處置をとつたか、庭の花卉は咲いたか?そして花の手入れはどうしているかとか、夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、また農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の年達に授けて実行に移して行くのでした。そして研郷會の集りにはみんなにも聞かせ、その後成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。
 農業の研究程至難なそして苦しいものはないと思ひます。何んとなれば農民は無智であるのと因襲に捉はれがちであり、只何をうらむともなく社會をうらみ、また個人間の感情的な争ひにさわぎ、生きることの尊さを知らずに死んで行くのです。私達はそれが本當に可哀そうであり、こまつたものだと思つて來ました。それを如何に打開すべきかは、研究の集りに出る一番大切な問題であつたのでした。先生はそれは言葉を持たない植物動物を取扱ふ百姓に、自然の美しさを知らしめてそこに樂しみと、美しさと尊さを見出させることが必要であるからと、色々草花の種子を取寄せられみんなに配つては、花の美しさを土台として見出させようと努力されたのでした。…(以下略)

         <『四次元 5号』(宮沢賢治友の会 Mar-50)より>

 というわけで、この千葉の追想文は穀物検査所を辞して村に帰って農業に従事している頃のものである。〝千葉は大船渡の盛町出身〟であると佐藤成は言っているから、普通に考えれば千葉は盛町の実家に戻って農業に専心したということになる。その盛町において、農學校を卒業して働いている青年32名と語らって農村の隆盛と農業技術の向上により理想の農村を創ろうと努力したことになるはず。
 そして、千葉は〝農業に従事する一方時々先生をお訪ねし〟と語っているから、千葉はわざわざ大船渡の盛町から、直線距離でも60㎞以上はある花巻下根子桜の賢治のもとまで度々訪ねて来ていたということになる。

 ところで、具体的にはどのような経路で千葉は盛町から花巻へ通ったのだろうか。一寸シミュレートしてみよう。千葉が通ったのは昭和4年前後と考えられるから、たまたま手許にあった昭和10年12月1日時点での『岩手縣内自動車便』(『昭和10年版岩手縣全図』、和楽路屋)を参考に見てみる。
 盛→遠野については 盛発6:30、7:30 の2本だけ(所要時間2時間30分)
 遠野→盛については 遠野発12:30、14:30 の2本だけ(所要時間1時間50分)
となっている。その他には便利で使えそうな自動車便はなさそうだから、当時の千葉はこの自動車便を使って遠野~盛間を往き来し、おそらく遠野からは、遠野~花巻間は軽便鉄道にでも乗ったのだろう。いずれ当時にすれば大船渡盛町~花巻下根子桜間は所要時間もかなり要したであろうからそう簡単に往き来できる所ではない。逆に言えば、「研郷會」を拠り所として地元の農業の改善と発展に掛ける千葉恭の意気込みと千葉と賢治の親密な師弟関係をそこから読み取れるのではなかろうか。

 なお、こうなるとますます気になることがある。というのは次のようなことである。
 約半年間千葉は賢治と一緒に寝泊まりし、千葉が穀物検査所を辞めてからも時々こうやって下根子桜に来ていた。そしてその場合の千葉は盛町~花巻間を一日では往復しなかったはず。というのは前述したバスの所要時間等を考えれば明らかで、時間的に窮屈あるいは無理だったろうし、その上『夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ』と千葉は語っているのだから、この当時もときどき千葉は下根子桜に泊まったはずである。したがっておそらく、羅須地人協会に集った人達はこの熱心な賢治の弟子、寝食を共にした弟子の千葉恭のことは良く知っていたし、一目置いていたに違いない。なのに何故彼等は千葉のことを語っていないのだろうか。例えば、千葉のことを十分に知っているだろうと思われる伊藤忠一(羅須地人協会の隣人かつ協会員)に対して千葉のことをK氏が取材しようとしたならば、伊藤は『そんな人は知らない』と言ったとK氏は私に教えてくれた。
 <補足:なお、千葉恭の出身地が大船渡盛町であるという佐藤成記事は間違いであったということが後に解ったので、上の考察は徒労であった>

 やはり、千葉恭のことはもっともっと調べてみる必要がありそうだ。
 
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