みちのくの山野草

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「本統の百姓になる」の「百姓」とは?(花卉園芸等)

2018-10-29 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
 さて、賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」とは、一つ、まずは少なくとも園芸をやることが必要条件であったことがほぼ明らかになった。
 ではその他にどのような必要条件があったのであろうか。それは、当然あの二つの新聞記事中の賢治の回答にもあり得るはずだ。まずは大正15年4月1日付『岩手日報』のあの記事、
   新しい農村の建設に努力する
         花巻農學校を辞した宮澤先生
 花巻川口町宮澤政治(ママ)郎氏長男賢治(二八(ママ))氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農村の建設に努力することになつたきのふ宮澤氏を訪ねると

現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思ってゐます そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです

と語つてゐた、氏は盛中卒業後盛岡高等農林學校に入学し同校を優等で卒業したまじめな人格者である
              <『岩手日報』(大正15年4月1日付)の三面より>
に、もう一つが、昭和2年2月1日付『岩手日報』のあの記事、
 農村文化の創造に努む
         花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
にだ。

 そこで次に、賢治が記者に語ったであろう前者の報道内容を個条書に書き直してみると、
(1) 現代の農村は経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へらる。
(2) そこで東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したい。
(3) 半年ぐらゐは花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたい。
(4) そこで幻燈會はまい週のやうに開さいする。
(5) レコードコンサートも月一囘位もよほしたい。
(6) 同志二十名ばかりいる。
(7) 自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないたい。
(8) しづかな生活をつづけて行く。
となる。
 一方、同様に後者の報道内容を個条書きに書き直してみると、
(a) 花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力する。
(b) 地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのが主眼である。
(c) 同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活にたち返らうとするものである。
(d) これがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り物々交換の制度を取り入れる。
(e) 農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行く。農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画である。
となる。

 では、4月1日の新聞報道から10ヶ月が経った翌年2月1日のそれにはどれだけの違いがあったかに注意しながら、まずは「いわゆる百姓としての仕事」の観点から概観してみよう。すぐ気が付くことは、このことに関する内容は案外乏しく、強いて言えば、せいぜい前者の
   (3) 半年ぐらゐは花巻で耕作にも従事し……
   (7) 自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないたい。   
と、後者の
   (d) ……耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り物々交換
ぐらいなものであるということである。

 そこで、まず「(3) 半年ぐらゐは花巻で耕作にも従事し」に関してだが、確かに賢治は開墾に従事していたし、耕作もしていた。そして、そこに育てた作物は以前に触れたように、佐々木多喜雄氏が
 開墾した畑には、主に洋菜で当時まだ一般的でなく珍しかったチシャ、セロリ、アスパラガス、パセリ、ケール、ラディッシュ、白菜など、果菜ではトマト、メロンであった。庭の花では洋花を中心としたヒヤシンス、グラジオラス、チューリップなどであった(佐々木2006b)。一部、トウモロコシ、ジャガイモも植えたようである(堀尾1991a)。
と教えてくれている。
 しかしこれまた佐々木氏が
 主食を栽培せず、花中心の栽培で生計を立てることは、農を業とする生業が農業と考えるのなら、当時の実状からは農業とは言えないのではなかろうか。
 大して売れもしない花栽培は、お金持ちの息子だから出来ることである。
指摘しているとおりで、「開墾した畑には、主に洋菜で当時まだ一般的でなく珍しかったチシャ、セロリ、アスパラガス、パセリ、ケール、ラディッシュ、白菜など」を耕作していたいうことであれば、それは当時の「百姓としての仕事」とは言えそうにもない。つまり、「いわゆる百姓としての仕事」としては特に取り立てて論ずるほどのものでもない。
 次に、(7)と(d)は一貫しているから興味深いのだが、私の知る限り物々交換があったという証言や資料はないわけではないが、「農作ぶつの物々交換」が実際に行われたというそれらを私は知らない。つまり、これもまた、「いわゆる百姓としての仕事」としては特に取り立てて論ずるほどのものでもない。

 したがって、賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」とは、一つ、まずは少なくとも園芸をやることが必要条件であったことがほぼ明らかになったと先に述べのだが、今回の二つの新聞記事に関する考察を加味することによって、
 賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」とは、「当時珍しかった花卉の園芸」や「当時珍しかった洋菜の栽培」が必要条件であった。
と修正したい。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月224日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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2 コメント

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Unknown (佐藤)
2018-11-05 06:28:53
いつも示唆に富んだブログを楽しみに拝見しております。
ご指摘のとおり、花卉園芸は当時まだまだ一般的ではありませんでした。賢治の試みも試作に留まってしまったのは残念です。

ただ、富山県のチューリップ栽培が1918(大正7)年に始まり、1924(大正13)年には栽培組合が設立されたように地方での花卉栽培の芽は出始めていました。

物々交換が目的なら的はずれかもしれませんが、当時の賢治に不足していたのは営業力だったかもしれません。
石灰工場で営業力をつけた賢治が健康であったら、花卉園芸にも成功したかもしれないと、夢想してしまいました。

http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1613/kj00014132-002-01.html
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ご教示、ありがとうございます (佐藤様へ)
2018-11-05 09:00:12
佐藤 様
 お早うございます。
 そして、コメントありがとうございます。
 賢治の着想はよかったとは思うのですが、実際にはなかなか上手くいかなかったようですね。
 その点、同時代だが、水野 豊造たちの取り組みは上手くいったということをお陰様で知りました。
 そこで私が思ったことは、水野は仲間と一緒にやったが、賢治は仲間を作らずに独りでやったという違いが、結果の違いを招いた大きな要因の一つではなかっただろうかということでした。
 これからも、どうぞいろいろと教えて下さい。
                       鈴木 守

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