みちのくの山野草

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1919 最上共働村塾

2010-12-27 15:00:00 | 賢治関連
        《1↑ 『土に叫ぶ』の碑》(平成21年11月10日撮影)

 前回の”写真で見る南城振興共働村塾”でしばしば登場した『最上共働村塾』について今回は少し報告したい。

 宮澤賢治の”訓へ”を受けて古里鳥越に戻った松田甚次郎は
昭和2年:実際小作人となり、鳥越倶楽部を結成し、農村劇を上演して「賢治精神」を実践し始め
昭和3年:日本国民高等学校に1年間入学し、校長の加藤完治の農本主義に共鳴
昭和4年:鳥越倶楽部に女子部を設置、盆踊り復活
昭和5年:満蒙移民の必要性を感じて萩野開墾地・大高根山形県立青年修養道場にて実習
昭和6年:大日本連合青年団指導者養成所の第1回生として入所。住井すゑや奥むめをなどのことを知り、農村婦人解放の決意新たに。また、農政学者小野武夫のもとにも出入し小野の思想から強く影響を受ける。

 そして昭和7年、甚次郎はいよいよ『最上共働村塾』を開塾した。その最上共働村塾とは一体どのような塾だったのだろうか。『月刊 すばらしい山形』(1991年12月号、相沢嘉久治編)によれば次のようなものであったという。

 昭和七年五月、北村山郡横山村(現大石町)寺崎敬太郎の二女睦子と結婚。同八月、全国の農村青年に大きな影響を与えることになる最上共働村塾を開設。村端れの営林署の苗圃の捨てられた番小屋を借り、聴講生八人を迎え、二週間の短期村塾であった。甚次郎は「農村向上のために修行研究しようと固く誓い、地名の最上にちなみ、且つ世にも最上(さいじょう)なる村塾としよう、そしてわれらの共に働くことから出来たのだから、『最上共働村塾』と命名した」と塾名の由来を説明した。
 また、開塾の趣旨を『村塾は現在の学校教育の弊を徹底的に矯正した人格教育であり、勤労教育であり、生活の訓練であります。(中略)唯々真に人類と祖国を愛し、村を愛し、土を愛し、隣人を愛し、永遠に真理を探究してゆく純潔なる若人達と、全生活、勤労を共にし、出来得る限り、その実践を通じて総べて科学的に研究し、各個人能力を確認し、もって自家の職分と生活の合理化、経営の最善に努力し、社会生活型の何物たるかを明らかにし、農村をどん底の立場や、不景気、失業苦のない明るい規範の社会を招来するまで勤めねばならぬ』と述べた。
 村塾の日課は、朝四時起床、冷水を浴びた後、駆け足、体操、太陽遙拝して朝食。午前は主に学科で、農村問題や社会問題・農業経営の講義、午後は畑仕事や堆肥作りの作業に励んだ。
 村塾は、その後、造築したり畜舎を建てたりして整備され、一年間通しての長期講習に踏み切った。村塾の名声は次第に広まり、入塾希望者は県外からも集まった。この中の一人に茨城県から来た増子あさがいた。あさは、住井すゑから教えられて村塾に来たが、甚次郎や塾生と共に真っ黒になって働いた。また、助産婦の資格を生かして、村に「出産相扶会」を組織し、女性の健康やお産のことを指導した。その働きぶりはいまも村人の語り草になっている。彼女は一時村塾を離れるが、再び鳥越に帰って村の人と結婚し、生涯をこの地で送った。
 ところがこの村塾は昭和十一年七月、閉塾のやむなきに至った。甚次郎の父が親類の負債を肩代わりしたことなどにより、松田家の経済が危うくなり、父から強く家業を継ぎ、これに専念するように要請されたためであった。


 なお、この後については”『土に叫ぶ』出版後の甚次郎”をご覧いただきたい。

《2 最上共働村塾の建っていた場所》(平成21年11月10日撮影)

《3 最上共働村塾跡の石標》(平成21年11月10日撮影)


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