![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/49/d498ea65def327468740727e0c016ea7.png)
さて、ここまでの考察によって、
そこで今回は「羅須地人協会時代」の賢治の「創作活動」について概観してみたい。
《詩》
まずは、詩についてである。これに関しては、先に例えば〝『春と修羅 第三集』昭和3年分より〟に掲げたように、「羅須地人協会時代」の賢治がどれほどの詩を当時詠んでいたのかは、次の図表〈「羅須地人協会時代」の賢治の詩の創作数〉
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/46/e64ce36c996b67b5f7bb662adb654c5b.png)
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
から一目瞭然であろう<*1>。
ただし気になるのは、賢治が『この篇みな/疲労時及病中の心ここになき手記なり/発表すべからず』と記して封印した詩稿群「10番稿」だ。これについては、以前の投稿〝「第三集」と『銅鑼』〟において、
そして、これらの詩の作品番号等は、
作品番号1082〔あすこの田はねえ〕 昭和2年7月
作品番号1020「野の師父」
作品番号1021「和風は河谷いっぱいに吹く」 昭和2年8月
ということだから、作品番号から言っても「野の師父」も同じ頃に詠まれたと推定できる。
これを踏まえて上掲図表を見直してみると、昭和2年の3月~夏場にかけて賢治は創作活動が旺盛で沢山の詩を詠んでいることがなおさらに際立つ。そして、それらの多くは「農民文芸会」の提唱する「農民詩」に近いものが多いと私には感じられる。同時にこれらの詩は、『心象スケッチ 春と修羅』所収の詩に見られたようなかつての煌めきも瑞々しさも失ってしまっているものが多いようにも見受けられる。しかも、封印された、〔あすこの田はねえ〕「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」には、先に私が検証してみたように虚構があり、その虚構の中身を知ってしまった私にはもはこれらの詩は感動が薄いものになってしまった。私がそう感ずるくらいだから、当の本人はそのことは百も承知であったであろう(それ故に、のちにこれらの詩篇を封印した可能性もある)。
そういえば、草野心平が次のようなことを言っていた。それは、以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#46)〟で投稿したものだが、
と。
そこでこれがもし事実であったならば、賢治は当時「傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます」とかなり弱気になっていたと言えそうだ。また、もし『農民文芸会』の白鳥省吾や佐伯郁郎に対してならばまだ賢治は彼らと折り合いをつけることはできたであろう。例えば、大正15年の7月に面会をドタキャンしたであろうこと等によって。ところが、詩集『野良に叫ぶ』が大正15年に発刊されて評判となった渋谷定輔、さらに昭和2年に入ると今度は同じ『銅鑼』の仲間の坂本遼や、三野混沌がにわかに脚光を浴びて高い評価を受けるようになったということだが、賢治ははたして渋谷、坂本、三野等とは折り合いがつけられたであろうか。白鳥や佐伯と違って彼らは本物の農民であったが故に賢治にはそれが難しかったのではなかろうか。
そこで、そのことに対して賢治は焦りを抱き始め、そのことをして突如大胆な虚構を賢治の詩においてなさしめたということはなかろうか。つまり賢治は、〔あすこの田はねえ〕「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」等において先に私が主張したような虚構を実際にしていたということはなかろうか。そして、それまでは殆どしたことがなかったようなことまでも賢治は虚構してしまっことを恥じ、同時に「農民詩」という分野における自身の限界(いくら逆立ちしても、出自が農民であったとはなれないことなどの)を悟って、
実際それは、
畢竟、「羅須地人協会時代」の賢治は詩の創作ではかなり頑張ったが、あの一般的には評価の高い次の3篇〔あすこの田はねえ〕「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」さえも後に封印した。これらの農事詩でさえも、「疲労時及病中の心ここになき手記」と自身で評価しているくらいだから、他の詩は推して知るべし。ということで、賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」としての必要条件だったはずの「農民芸術」も、詩の分野では賢治は悔いを残すことになったということはほぼ明らかとなった。
《童話》
それでは次に、「羅須地人協会時代」の童話については何が創作されていたのだろうか。このことについて以前調べた際に驚いたのだが、基本的には殆どない。具体的には、『宮沢賢治必携』(佐藤泰正編、學燈社)によって調べたのだが、賢治童話のうちで「羅須地人協会時代」(大正15年4月~昭和3年8月)に執筆された可能性があると思われるものは、『なめとこ山の熊』かせいぜい『〔或る農学生の日誌〕』ぐらいなものであった。同書によれば、賢治の童話の数は140編弱だから、「羅須地人協会時代」の賢治は童話を殆ど創作していなかった、となる。
《芸術理論》
それから、賢治の芸術理論としては「農民藝術概論綱要」が挙げられるであろう。私には難しすぎるが、そこで高らかに謳い上げていることは詩のようでうっとりするし、その内容はとても素晴らしいものであろうことは私にもそこそこわかる。ただし、これには方法論が言及しておらず、直接は実践には繋がらなかったようで、理論で終わってしまったことが私からすれば残念だ。
以上、私の「ない頭」で、ここまで賢治の「創作活動」についてあれこれ考えを巡らしてみたわけだが、賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」としての必要条件としては「農民芸術」もあったと判断できたものの、「羅須地人協会時代」の「創作活動」という分野においては、「農民藝術概論綱要」以外にはそれほどのものは見られず、おそらく賢治はかなり悔いを残していたのではなかろうか。
なお、ここまでは「羅須地人協会時代」の「農民芸術」における賢治の「創作活動」について考察をしてみたわけだが、同時代の「農民芸術」としては音楽分野もあるので、次回は同時代の賢治自身の「音楽活動」について考えてみたい。
<*1:投稿者註> 「羅須地人協会時代」の詩作は数から言えば昭和2年がかなり多いものの、その後減っていってるし、「羅須地人協会時代」が過ぎてからは少なくとも日付のついた詩の創作はほぼ見つからない。詩嚢が痩せていったのであろうか。
<*2:投稿者註> 実際に、『銅鑼』に載っている彼らの作品を拾い上げてみると以下の通り。
賢治は『銅鑼』第14号以降は投稿していない。それに代わって三野混沌が沢山寄稿している、と私には写る。
続きへ。
前へ
。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/c8/22d7287548711cb2a83b757841c5c0c6.jpg)
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」としての必要条件には、
一.「当時珍しかった花卉の園芸」や「当時珍しかった洋菜の栽培」
一.農民芸術
が少なくともある。
と言えることに私は気付いた。さりながら、その「百姓」としての必要条件である「農民芸術」が、先に述べた程度のものであったとすればあまりにも心許ないものであることは自明だから、当時の賢治自身が「農民芸術」に関わってどのような「創作活動」をしていたのかを調べる必要がある。一.「当時珍しかった花卉の園芸」や「当時珍しかった洋菜の栽培」
一.農民芸術
が少なくともある。
そこで今回は「羅須地人協会時代」の賢治の「創作活動」について概観してみたい。
《詩》
まずは、詩についてである。これに関しては、先に例えば〝『春と修羅 第三集』昭和3年分より〟に掲げたように、「羅須地人協会時代」の賢治がどれほどの詩を当時詠んでいたのかは、次の図表〈「羅須地人協会時代」の賢治の詩の創作数〉
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/46/e64ce36c996b67b5f7bb662adb654c5b.png)
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
から一目瞭然であろう<*1>。
ただし気になるのは、賢治が『この篇みな/疲労時及病中の心ここになき手記なり/発表すべからず』と記して封印した詩稿群「10番稿」だ。これについては、以前の投稿〝「第三集」と『銅鑼』〟において、
賢治が封印した詩稿群「10番稿」があるということを知った訳だが、その際に、私からすればかなり意外に思えたのがその中に一般的には評価の高い次の3篇〔あすこの田はねえ〕「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」までもが含まれていたことである。
と私は驚きを述べた。そして、これらの詩の作品番号等は、
作品番号1082〔あすこの田はねえ〕 昭和2年7月
作品番号1020「野の師父」
作品番号1021「和風は河谷いっぱいに吹く」 昭和2年8月
ということだから、作品番号から言っても「野の師父」も同じ頃に詠まれたと推定できる。
これを踏まえて上掲図表を見直してみると、昭和2年の3月~夏場にかけて賢治は創作活動が旺盛で沢山の詩を詠んでいることがなおさらに際立つ。そして、それらの多くは「農民文芸会」の提唱する「農民詩」に近いものが多いと私には感じられる。同時にこれらの詩は、『心象スケッチ 春と修羅』所収の詩に見られたようなかつての煌めきも瑞々しさも失ってしまっているものが多いようにも見受けられる。しかも、封印された、〔あすこの田はねえ〕「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」には、先に私が検証してみたように虚構があり、その虚構の中身を知ってしまった私にはもはこれらの詩は感動が薄いものになってしまった。私がそう感ずるくらいだから、当の本人はそのことは百も承知であったであろう(それ故に、のちにこれらの詩篇を封印した可能性もある)。
そういえば、草野心平が次のようなことを言っていた。それは、以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#46)〟で投稿したものだが、
「坂本さんとか三野さんとか傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます」
宮澤賢治が未だ生きてゐたころ、彼は私への私信でそのやうな意味の言葉を書いてきたことがあつた。坂本、三野(混沌)、宮澤、私など、その頃みんなガリ版詩誌「銅鑼」の同人だつた。そして賢治が讀んだのは「銅鑼」に載つた彼等の作品と『たんぽぽ』と『この家の主人は誰なのかわからない』(三野)の二つの詩集だけだつたことは明瞭である。何故なら彼等は當時、それ以外の場には發表するところもなかつたから。
<『詩と詩人』(草野心平著、和光社)212pより>宮澤賢治が未だ生きてゐたころ、彼は私への私信でそのやうな意味の言葉を書いてきたことがあつた。坂本、三野(混沌)、宮澤、私など、その頃みんなガリ版詩誌「銅鑼」の同人だつた。そして賢治が讀んだのは「銅鑼」に載つた彼等の作品と『たんぽぽ』と『この家の主人は誰なのかわからない』(三野)の二つの詩集だけだつたことは明瞭である。何故なら彼等は當時、それ以外の場には發表するところもなかつたから。
と。
そこでこれがもし事実であったならば、賢治は当時「傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます」とかなり弱気になっていたと言えそうだ。また、もし『農民文芸会』の白鳥省吾や佐伯郁郎に対してならばまだ賢治は彼らと折り合いをつけることはできたであろう。例えば、大正15年の7月に面会をドタキャンしたであろうこと等によって。ところが、詩集『野良に叫ぶ』が大正15年に発刊されて評判となった渋谷定輔、さらに昭和2年に入ると今度は同じ『銅鑼』の仲間の坂本遼や、三野混沌がにわかに脚光を浴びて高い評価を受けるようになったということだが、賢治ははたして渋谷、坂本、三野等とは折り合いがつけられたであろうか。白鳥や佐伯と違って彼らは本物の農民であったが故に賢治にはそれが難しかったのではなかろうか。
そこで、そのことに対して賢治は焦りを抱き始め、そのことをして突如大胆な虚構を賢治の詩においてなさしめたということはなかろうか。つまり賢治は、〔あすこの田はねえ〕「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」等において先に私が主張したような虚構を実際にしていたということはなかろうか。そして、それまでは殆どしたことがなかったようなことまでも賢治は虚構してしまっことを恥じ、同時に「農民詩」という分野における自身の限界(いくら逆立ちしても、出自が農民であったとはなれないことなどの)を悟って、
坂本さんとか三野さんとか傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます。
と弱音を吐露したのかもしれない、と私は考えている。実際それは、
「春と修羅 第一集」や「同 第二集」所収の詩についてはそうではないのに、賢治は「春と修羅 第三集」所収の詩については1篇たりとも『銅鑼』に寄稿していなかった<*2>。
ということが雄弁に物語っていそうだ。論理的には、賢治自身も「羅須地人協会時代」に詠んで「第三集」所収の詩については、「第一集」や「第二集」のそれらと比べて、あまり自信がなかったということになりそうだ。かつては有り余るほどにあった自身の詩嚢が痩せてきていたということを自覚し始めていたのかもしれない。そしてついに晩年になると、己の矜恃をしていくつかの詩篇を詩稿群「10番稿」として封印せしめたということも、否定しきれない。畢竟、「羅須地人協会時代」の賢治は詩の創作ではかなり頑張ったが、あの一般的には評価の高い次の3篇〔あすこの田はねえ〕「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」さえも後に封印した。これらの農事詩でさえも、「疲労時及病中の心ここになき手記」と自身で評価しているくらいだから、他の詩は推して知るべし。ということで、賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」としての必要条件だったはずの「農民芸術」も、詩の分野では賢治は悔いを残すことになったということはほぼ明らかとなった。
《童話》
それでは次に、「羅須地人協会時代」の童話については何が創作されていたのだろうか。このことについて以前調べた際に驚いたのだが、基本的には殆どない。具体的には、『宮沢賢治必携』(佐藤泰正編、學燈社)によって調べたのだが、賢治童話のうちで「羅須地人協会時代」(大正15年4月~昭和3年8月)に執筆された可能性があると思われるものは、『なめとこ山の熊』かせいぜい『〔或る農学生の日誌〕』ぐらいなものであった。同書によれば、賢治の童話の数は140編弱だから、「羅須地人協会時代」の賢治は童話を殆ど創作していなかった、となる。
《芸術理論》
それから、賢治の芸術理論としては「農民藝術概論綱要」が挙げられるであろう。私には難しすぎるが、そこで高らかに謳い上げていることは詩のようでうっとりするし、その内容はとても素晴らしいものであろうことは私にもそこそこわかる。ただし、これには方法論が言及しておらず、直接は実践には繋がらなかったようで、理論で終わってしまったことが私からすれば残念だ。
以上、私の「ない頭」で、ここまで賢治の「創作活動」についてあれこれ考えを巡らしてみたわけだが、賢治が言うところの「本統の百姓になる」の「百姓」としての必要条件としては「農民芸術」もあったと判断できたものの、「羅須地人協会時代」の「創作活動」という分野においては、「農民藝術概論綱要」以外にはそれほどのものは見られず、おそらく賢治はかなり悔いを残していたのではなかろうか。
なお、ここまでは「羅須地人協会時代」の「農民芸術」における賢治の「創作活動」について考察をしてみたわけだが、同時代の「農民芸術」としては音楽分野もあるので、次回は同時代の賢治自身の「音楽活動」について考えてみたい。
<*1:投稿者註> 「羅須地人協会時代」の詩作は数から言えば昭和2年がかなり多いものの、その後減っていってるし、「羅須地人協会時代」が過ぎてからは少なくとも日付のついた詩の創作はほぼ見つからない。詩嚢が痩せていったのであろうか。
<*2:投稿者註> 実際に、『銅鑼』に載っている彼らの作品を拾い上げてみると以下の通り。
・大正?年
第3号
「妹よ」 坂本遼
・大正14年
9月8日 第4号
「―命令―」=『春と修羅』第二集
「未来圏からの影」=『春と修羅』第二集
「町の女の人はおらの心をひらく」 坂本遼
「浅やんの心」 坂本遼
10月27日 第5号
「休息」=『春と修羅』第二集
「丘陵地」=『春と修羅』第二集
「赤いだるまと青いひょうたん」 坂本遼
「みみず」 坂本遼
「山のイノツクアーデン」 坂本遼
・大正15年
1月1日 第6号
「昇羃銀盤」=『春と修羅』第二集
「秋と負債」=『春と修羅』第二集
「秋」 坂本遼
「二十二歳の秋」 坂本遼
「秋とおらの家の不運」 坂本遼
8月1日 第7号
「風と反感」=『春と修羅』第二集
「「ジヤズ」夏のはなしです」=『春と修羅』第二集
「たんぽぽ」 坂本遼
「からす」 坂本遼
10月1日? 第8号
「だまってゐる心と心」 坂本遼
「牛」 坂本遼
「持病」 坂本遼
「●」 坂本遼
「ワルツ第CZ号列車」=『春と修羅』第二集
12月1日 第9号
「永訣の朝」=『春と修羅』(第一集)
「お鶴の詩と俺」 坂本遼
・昭和2年
2月21日 第10号
「日向」 坂本遼
「冬と銀河ステーション」=『春と修羅』(第一集)
6月1日 第11号
「無題」 坂本遼
9月1日 第12号
「百姓同志」 三野混沌
「イーハトーヴォの氷霧」=『春と修羅』(第一集)
・昭和3年
2月1日 第13号
「やまのうえの家」 三野混沌
「吹雪」 三野混沌
「氷質のジヨウ談」=『春と修羅』第二集
「いも畑の出来事」 坂本遼
5月1日 第15号
「おれは行つてやつを助け」 三野混沌
6月1日 第16号
「野原」 三野混沌
「僕達小作人と春」 三野混沌
「クロポトキンの追憶に」 三野混沌
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(上)補遺・資料篇』(筑摩書房)343p~より>第3号
「妹よ」 坂本遼
・大正14年
9月8日 第4号
「―命令―」=『春と修羅』第二集
「未来圏からの影」=『春と修羅』第二集
「町の女の人はおらの心をひらく」 坂本遼
「浅やんの心」 坂本遼
10月27日 第5号
「休息」=『春と修羅』第二集
「丘陵地」=『春と修羅』第二集
「赤いだるまと青いひょうたん」 坂本遼
「みみず」 坂本遼
「山のイノツクアーデン」 坂本遼
・大正15年
1月1日 第6号
「昇羃銀盤」=『春と修羅』第二集
「秋と負債」=『春と修羅』第二集
「秋」 坂本遼
「二十二歳の秋」 坂本遼
「秋とおらの家の不運」 坂本遼
8月1日 第7号
「風と反感」=『春と修羅』第二集
「「ジヤズ」夏のはなしです」=『春と修羅』第二集
「たんぽぽ」 坂本遼
「からす」 坂本遼
10月1日? 第8号
「だまってゐる心と心」 坂本遼
「牛」 坂本遼
「持病」 坂本遼
「●」 坂本遼
「ワルツ第CZ号列車」=『春と修羅』第二集
12月1日 第9号
「永訣の朝」=『春と修羅』(第一集)
「お鶴の詩と俺」 坂本遼
・昭和2年
2月21日 第10号
「日向」 坂本遼
「冬と銀河ステーション」=『春と修羅』(第一集)
6月1日 第11号
「無題」 坂本遼
9月1日 第12号
「百姓同志」 三野混沌
「イーハトーヴォの氷霧」=『春と修羅』(第一集)
・昭和3年
2月1日 第13号
「やまのうえの家」 三野混沌
「吹雪」 三野混沌
「氷質のジヨウ談」=『春と修羅』第二集
「いも畑の出来事」 坂本遼
5月1日 第15号
「おれは行つてやつを助け」 三野混沌
6月1日 第16号
「野原」 三野混沌
「僕達小作人と春」 三野混沌
「クロポトキンの追憶に」 三野混沌
賢治は『銅鑼』第14号以降は投稿していない。それに代わって三野混沌が沢山寄稿している、と私には写る。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
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〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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