《『若い詩人の肖像』(伊藤整著、新潮社文庫)表紙》
『私の賢治散歩』より
菊池忠二氏の『私の賢治散歩』の中の「あるゴシップ」は次のように書き出されている。
伊藤整の青春時代を描いた自伝的小説、『若い詩人の肖像』の一節には、宮沢賢治にふれて、次のようなエピソードを述べた箇所がある。
「民衆派の代表的な一詩人で『日本詩人』の中心になっていた某が、大正十三年に出た宮沢賢治の詩集『春と修羅』を読んで驚き、岩手県に行ったとき宮沢を尋ねたところ、宮沢は面会謝絶を喰らわした。そのゴシップがいかにも痛快だという調子で宮沢吉次の編集していた『詩壇消息』にこの頃書かれていた。」
<『私の賢治散歩(下巻)』(菊池忠二著)より>
とあり、この〝某〟とは白鳥省吾であるということを菊池氏は同著で明らかにしていることを知った。
『若い詩人の肖像』より
そこで、この伊藤整の『若い詩人の肖像』を買い求めて見てみると、同著の中に「六 若い詩人の肖像」という章があり次のようなことなどが書かれていた。
この時、前年末の『日本詩人』の崩壊を期として、詩壇には大きな変化が現れかけていたのである。私は雑誌面での動きには気を配ったいたが、田舎者だったので、その詩壇のほとんど政治的と言ってもいい裏面の動きには盲目であった。大正末期の三四年間、『日本詩人』に集まった自由詩派や民衆詩派を中心とする詩人たちが、新潮社という一流出版社から出たこの雑誌を舞台にして、活躍した。その結果三木露風北原白秋という大正初期の唯美主義や、その後に続く芸術至上主義的な日夏耿之介、堀口大学、西条八十等が詩壇の片隅に立ち退いた恰好になった。それだけでなく、『日本詩人』はその次の時代の詩人に対して門戸を開放する仕方が足りなかった。吉田一穂、佐藤一英等の唯美派の新人も目立たなかったし、平戸廉吉、萩原恭次郎、草野心平、岡本潤、高橋新吉等のアナーキストやダダイスト系の新人たちもよい発表場所がなかった。その感情は、民衆派の代表的な一詩人で『日本詩人』の中心になっていた某が、大正十三年に出た宮沢賢治の詩集『春と修羅』を読んで驚き、岩手県に行ったとき宮沢を尋ねたところ、宮沢は面会謝絶を喰らわした。そのゴシップがいかにも痛快だという調子で宮沢吉次の編集していた『詩壇消息』にこの頃書かれていた。私は宮沢賢治を立派だと思い、自分の顔が赤らむのを感じた。
そのような詩壇の若手の不満の気持ちが大正の末年には、爆発的に盛り上がりかけていたのである。『日本詩人』がつぶれたことは、理想もエネルギーも失った詩話会同人の砦の崩壊を意味し、ちょうど尾崎紅葉の死による硯友社の崩壊の時に、田山花袋や国木田独歩や島崎藤村が感じたような、我等の時来たるという意識が、若い詩人たちの間にみなぎったのだった。『日本詩人』はつぶれたが、その主な同人たちは、自分のグループ雑誌を持っていた。白鳥省吾は『地上楽園』を、川路柳虹は『炬火』を、佐藤惣之助は『詩の家』を、そして最後には、民衆派詩的作風から逃れ去って俳句的静寂の詩境に移った百田宗治が『椎の木』を作った。昭和初年になるとともに、文壇の新流派である新感覚派やプロレタリア文学が地位を得たことの反映として、未来派、ダダイスム、超現実派という新風をもたらした詩人たちが、詩壇の入り口に押し寄せていたのである。
それはその時代の直前に死んだ平戸廉吉であり、また宮沢賢治であり、荻原恭次郎であり、岡本潤であり、大手拓次であり、草野心平であり…(略)…
<若い詩人の肖像』(伊藤整著、新潮社文庫)>
と。そして、伊藤整はこのゴシップを知って
私は宮沢賢治を立派だと思い、自分の顔が赤らむのを感じた。
と心情を正直に吐露していたのであった。
ゴシップの真偽
もちろんこのゴシップとはあの
さて伊藤整がこのゴシップを知ったのはいつ頃だったのだろうか。ここには
『詩壇消息』にこの頃書かれていた。
と述べられているし、そのことに関して菊池忠二氏は前著において
伊藤氏が宮沢吉次編集の『詩壇消息』を読んだのは、昭和二年四月頃のことであったといわれる。
と述べている。
ということは、この時点(昭和2年4月)でこのゴシップはある程度広く知れわたっていたことであろう。当時一世を風靡していた民衆派詩人の大御所白鳥省吾が当時殆ど名も知られていなかった賢治に面会を謝絶されたということで、一部の人達はこのゴシップを面白おかしく吹聴していったに違いない。
それにしても、約束の前日、それも人が使わされて来てそれを反故にされることは一般には愉快なことではないはず。まして白鳥にすれば、この年(大正15年)には詩誌「地上楽園」を創刊するほどに民衆詩が定着していった時期でもある(『白鳥省吾の詩と生涯』(築館町発行)より)から鼻先をへし折られて苦々しく思ったに違いない。
一方この断りの使者の件に関しては、実は白鳥省吾は下根子桜の賢治の許を直接訪ねたが玄関先で面会を断られたという説もあると聞く。
白鳥省吾記念館訪問
そこでその真偽のほどが気になったので、宮城県の築館町にある白鳥省吾記念館を訪れたことがある。
《白鳥省吾記念館(平成23年3月1日撮影》
そしてそこの学芸員に
『大正15年7月25日に千葉恭という人物が、翌日白鳥省吾が宮澤賢治宅を訪問するという約束をしていたのだがそれを断りに行ったと言われれています。一方白鳥省吾は花巻の賢治の許を訪ねたが玄関先で面会を断られたという説もあると聞いております。本当のところはどうなんでしょうか、教えていただきたいのですが』
とお願いしたのだが、残念ながらそのようなことに関しては知らないということであった。
白鳥省吾の詩
なお、そこで『白鳥省吾の詩と生涯』を手に入れることができたので少し彼の詩を見てみたい。
小作人の子
というようなものである。
なお詩の鑑賞力のない私ではあるが、白鳥省吾の詩の依って立つところは賢治と結構似ている部分があるということを感じたし、もし賢治がこのような白鳥の詩を読んだとすれば何かしら身につまされていたのではなかろうかということが推察される。たしかにその時点で、私も賢治の立場なら白鳥に会いたくなくなるような気がする。
現時点での結論
賢治自身も白鳥省吾自身もそれぞれ面会を謝絶し、されたということを書き残しているわけではないようだからこの「面会謝絶」の真相が千葉恭の言っている通りかどうかは今の時点では私にはしかと判らない。が、それから一年も経たずに伊藤整にこのゴシップが伝わっていたということは、その他の詩人等にも広く伝わっていたことであろう。したがって、千葉恭が賢治に代わって訪問を断りに行ったということに関してはほぼ歴史的事実であろう。
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『私の賢治散歩』より
菊池忠二氏の『私の賢治散歩』の中の「あるゴシップ」は次のように書き出されている。
伊藤整の青春時代を描いた自伝的小説、『若い詩人の肖像』の一節には、宮沢賢治にふれて、次のようなエピソードを述べた箇所がある。
「民衆派の代表的な一詩人で『日本詩人』の中心になっていた某が、大正十三年に出た宮沢賢治の詩集『春と修羅』を読んで驚き、岩手県に行ったとき宮沢を尋ねたところ、宮沢は面会謝絶を喰らわした。そのゴシップがいかにも痛快だという調子で宮沢吉次の編集していた『詩壇消息』にこの頃書かれていた。」
<『私の賢治散歩(下巻)』(菊池忠二著)より>
とあり、この〝某〟とは白鳥省吾であるということを菊池氏は同著で明らかにしていることを知った。
『若い詩人の肖像』より
そこで、この伊藤整の『若い詩人の肖像』を買い求めて見てみると、同著の中に「六 若い詩人の肖像」という章があり次のようなことなどが書かれていた。
この時、前年末の『日本詩人』の崩壊を期として、詩壇には大きな変化が現れかけていたのである。私は雑誌面での動きには気を配ったいたが、田舎者だったので、その詩壇のほとんど政治的と言ってもいい裏面の動きには盲目であった。大正末期の三四年間、『日本詩人』に集まった自由詩派や民衆詩派を中心とする詩人たちが、新潮社という一流出版社から出たこの雑誌を舞台にして、活躍した。その結果三木露風北原白秋という大正初期の唯美主義や、その後に続く芸術至上主義的な日夏耿之介、堀口大学、西条八十等が詩壇の片隅に立ち退いた恰好になった。それだけでなく、『日本詩人』はその次の時代の詩人に対して門戸を開放する仕方が足りなかった。吉田一穂、佐藤一英等の唯美派の新人も目立たなかったし、平戸廉吉、萩原恭次郎、草野心平、岡本潤、高橋新吉等のアナーキストやダダイスト系の新人たちもよい発表場所がなかった。その感情は、民衆派の代表的な一詩人で『日本詩人』の中心になっていた某が、大正十三年に出た宮沢賢治の詩集『春と修羅』を読んで驚き、岩手県に行ったとき宮沢を尋ねたところ、宮沢は面会謝絶を喰らわした。そのゴシップがいかにも痛快だという調子で宮沢吉次の編集していた『詩壇消息』にこの頃書かれていた。私は宮沢賢治を立派だと思い、自分の顔が赤らむのを感じた。
そのような詩壇の若手の不満の気持ちが大正の末年には、爆発的に盛り上がりかけていたのである。『日本詩人』がつぶれたことは、理想もエネルギーも失った詩話会同人の砦の崩壊を意味し、ちょうど尾崎紅葉の死による硯友社の崩壊の時に、田山花袋や国木田独歩や島崎藤村が感じたような、我等の時来たるという意識が、若い詩人たちの間にみなぎったのだった。『日本詩人』はつぶれたが、その主な同人たちは、自分のグループ雑誌を持っていた。白鳥省吾は『地上楽園』を、川路柳虹は『炬火』を、佐藤惣之助は『詩の家』を、そして最後には、民衆派詩的作風から逃れ去って俳句的静寂の詩境に移った百田宗治が『椎の木』を作った。昭和初年になるとともに、文壇の新流派である新感覚派やプロレタリア文学が地位を得たことの反映として、未来派、ダダイスム、超現実派という新風をもたらした詩人たちが、詩壇の入り口に押し寄せていたのである。
それはその時代の直前に死んだ平戸廉吉であり、また宮沢賢治であり、荻原恭次郎であり、岡本潤であり、大手拓次であり、草野心平であり…(略)…
<若い詩人の肖像』(伊藤整著、新潮社文庫)>
と。そして、伊藤整はこのゴシップを知って
私は宮沢賢治を立派だと思い、自分の顔が赤らむのを感じた。
と心情を正直に吐露していたのであった。
ゴシップの真偽
もちろんこのゴシップとはあの
〝賢治は一旦白鳥省吾と犬田卯の下根子桜訪問を許諾しておきながら、その約束の前日に千葉恭にそれを断りに行かせた。〟
のことである。さて伊藤整がこのゴシップを知ったのはいつ頃だったのだろうか。ここには
『詩壇消息』にこの頃書かれていた。
と述べられているし、そのことに関して菊池忠二氏は前著において
伊藤氏が宮沢吉次編集の『詩壇消息』を読んだのは、昭和二年四月頃のことであったといわれる。
と述べている。
ということは、この時点(昭和2年4月)でこのゴシップはある程度広く知れわたっていたことであろう。当時一世を風靡していた民衆派詩人の大御所白鳥省吾が当時殆ど名も知られていなかった賢治に面会を謝絶されたということで、一部の人達はこのゴシップを面白おかしく吹聴していったに違いない。
それにしても、約束の前日、それも人が使わされて来てそれを反故にされることは一般には愉快なことではないはず。まして白鳥にすれば、この年(大正15年)には詩誌「地上楽園」を創刊するほどに民衆詩が定着していった時期でもある(『白鳥省吾の詩と生涯』(築館町発行)より)から鼻先をへし折られて苦々しく思ったに違いない。
一方この断りの使者の件に関しては、実は白鳥省吾は下根子桜の賢治の許を直接訪ねたが玄関先で面会を断られたという説もあると聞く。
白鳥省吾記念館訪問
そこでその真偽のほどが気になったので、宮城県の築館町にある白鳥省吾記念館を訪れたことがある。
《白鳥省吾記念館(平成23年3月1日撮影》
そしてそこの学芸員に
『大正15年7月25日に千葉恭という人物が、翌日白鳥省吾が宮澤賢治宅を訪問するという約束をしていたのだがそれを断りに行ったと言われれています。一方白鳥省吾は花巻の賢治の許を訪ねたが玄関先で面会を断られたという説もあると聞いております。本当のところはどうなんでしょうか、教えていただきたいのですが』
とお願いしたのだが、残念ながらそのようなことに関しては知らないということであった。
白鳥省吾の詩
なお、そこで『白鳥省吾の詩と生涯』を手に入れることができたので少し彼の詩を見てみたい。
小作人の子
小作人の善作の子が
あばら家で泣いてゐるのが通りから一目で見える
爐のほとりの板敷一間は
彼等の臺所であり寝室であり
土間にはいつぱいの馬鈴薯が轉げて居る
彼等の唯一の財産のやうに。
…(略)…
けれども善作夫婦は働いても働いても抜けきれぬ貧乏
その夫婦ものゝ生んだ子供は
がらんとしたあばら家でわいわい泣いている。
あばら家で泣いてゐるのが通りから一目で見える
爐のほとりの板敷一間は
彼等の臺所であり寝室であり
土間にはいつぱいの馬鈴薯が轉げて居る
彼等の唯一の財産のやうに。
…(略)…
けれども善作夫婦は働いても働いても抜けきれぬ貧乏
その夫婦ものゝ生んだ子供は
がらんとしたあばら家でわいわい泣いている。
「樂園の途上」
美しい國見渡す限り田と畑と
その中を輝き流れる大河と
遠く起伏する山脈と
れやかの空と
爽やかの微風と
それらの中に立つて
人生がどうして不幸であると思へよう。
…(略)…
おお美しい山河は
あり餘るものを生産しながら
人間を少しも幸福にしてゐないやうに見える、
されば凡ての人が樂しく勞働し生活に歡喜を感ずるようにと
ロバアト・オウエンは『協和共力の村』を計畫した、
ウイリアム・モリスは『理想』を描いた。
…(略)…
その中を輝き流れる大河と
遠く起伏する山脈と
れやかの空と
爽やかの微風と
それらの中に立つて
人生がどうして不幸であると思へよう。
…(略)…
おお美しい山河は
あり餘るものを生産しながら
人間を少しも幸福にしてゐないやうに見える、
されば凡ての人が樂しく勞働し生活に歡喜を感ずるようにと
ロバアト・オウエンは『協和共力の村』を計畫した、
ウイリアム・モリスは『理想』を描いた。
…(略)…
「共生の旗」
耕地を失ふ日命じ三十五年の飢饉にひき続いて
三十七八年の日露戦争が来た
御国のために命を惜むなと
一家の働き手の壮丁がみんな招集された
いとどさへ貧しい家々は
或る金持から少しばかりの金を借りた、
満州の野で若者等は家を思ひながら死んだ
貧しい家に一片の戦死の報が届いた、
国を挙げて戦つてゐる時、小農の嘆く時
地主のふところは益々肥るばかり
返せない少しばかりの金が
驚くべき金高となつて小農の耕地を奪つた。
磁石が鉄片を吸ひ寄せるやうに
実に見事に一人の人間に多くの土地が集まつた、
…(略)…
三十七八年の日露戦争が来た
御国のために命を惜むなと
一家の働き手の壮丁がみんな招集された
いとどさへ貧しい家々は
或る金持から少しばかりの金を借りた、
満州の野で若者等は家を思ひながら死んだ
貧しい家に一片の戦死の報が届いた、
国を挙げて戦つてゐる時、小農の嘆く時
地主のふところは益々肥るばかり
返せない少しばかりの金が
驚くべき金高となつて小農の耕地を奪つた。
磁石が鉄片を吸ひ寄せるやうに
実に見事に一人の人間に多くの土地が集まつた、
…(略)…
詩集「樂園の途上」
<いずれも『白鳥省吾の詩と生涯』(築館町発行)より>というようなものである。
なお詩の鑑賞力のない私ではあるが、白鳥省吾の詩の依って立つところは賢治と結構似ている部分があるということを感じたし、もし賢治がこのような白鳥の詩を読んだとすれば何かしら身につまされていたのではなかろうかということが推察される。たしかにその時点で、私も賢治の立場なら白鳥に会いたくなくなるような気がする。
現時点での結論
賢治自身も白鳥省吾自身もそれぞれ面会を謝絶し、されたということを書き残しているわけではないようだからこの「面会謝絶」の真相が千葉恭の言っている通りかどうかは今の時点では私にはしかと判らない。が、それから一年も経たずに伊藤整にこのゴシップが伝わっていたということは、その他の詩人等にも広く伝わっていたことであろう。したがって、千葉恭が賢治に代わって訪問を断りに行ったということに関してはほぼ歴史的事実であろう。
続きの
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