みちのくの山野草

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八重樫賢師について

2024-05-14 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

 さて、この時の「アカ狩り」で函館に追われたという八重樫賢師についてだが、上田仲雄の論文「岩手無産運動史」の中に、
 五月以降I(投稿者イニシャル化)盛岡署長による無産運動え(ママ)の圧迫ははげしくなり、旧労農党支部事務所の捜査、党員は金銭、物品、商品の貸借関係を欺偽、横領の罪名で取り調べられ、党員の盛岡市外の外出は浮浪罪をよび、七月党事務所は奪取せらる。一方盛岡署の私服は党員を訪問、脱退を勧告し、肯んじない場合は拘留、投獄、又は勤務先の訪問をもって脅かし、旧労農党はこの弾圧に数ヶ月にして殆ど破壊されるに至っている。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭したT(投稿者イニシャル化)新盛岡警察署長により無産運動家の大検束が行われた。この大検束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向が生じ、岩手無産運動の一つの転期を孕んで来た。
             <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54p >
ということが論じられていて、この時に「一週間以上~一日内外」の検束処分にされた者の注釈が前掲書の68pにあって、花巻署管内では
   川村尚二(ママ) 八重樫賢志(ママ) 
という二人の名前の記載があり、おそらく正しい名はそれぞれ川村尚三、八重樫賢師であろう。したがって、八重樫は昭和3年の「陸軍大演習」を前にして行われた大検束の際に検束処分にされたと考えてほぼ間違いなかろう。
 一方、この八重樫賢師は「羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者」でもあるということなのでそのことを確認しようと思ってあちこち尋ね廻ってみたところ、平成25年3月6日にD氏(当時約80歳)に会うことができて、八重樫賢師に関して次のようなこと等を教えてもらえた。
・賢師は、昭和3年の「陸軍大演習」を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館へ行った。
・函館の五稜郭の近くに親戚がおり、そこに身を寄せたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなった。
・農学校の傍で生徒みたいなこともしていたという。
・頭も良くて、人間的にも立派な方だったと聞いている。
・賢治さんの使い走りのようなことをさせられていたという。
・昭和3年当時、八重樫の家の周りを特務機関の方がウロウロしていたということを八重樫の隣人から教わった。
併せて、私はそれまで八重樫賢師の〝賢師〟の読み方はついつい〝けんじ〟だとばかり思っていたのだが、D氏からその時に〝けんし〟ですよということや、名須川溢男が訪ねて来てD氏の義母から聴き取りをしていた際に、その傍にいてそのやりとりを聞いておりましたということなども教えてもらった。
 私はD氏のこれらの証言などを聞きながら、昭和3年の夏に花巻でも無産運動等に対してすさまじい「アカ狩り」が行われていたことは紛れもない事実であったということを確信した。そして、八重樫は昭和3年8月頃に官憲に追われて函館へ奔り、程なく客死していたということはほぼ事実であったのだろうということもである。
 あるいはこれとは別に、私の先輩T氏からは、
 私のおばが、『ある時、「下ノ畑」の傍で賢治と二人で小屋を造っている人を見たことがある。その人は、そこに農園のようなものを開いていた鍛冶町のけんじであった』と言っていた。
ということを教えてもらった(平成26年2月19日、花巻市I館にて)。私はそれを聞いてすぐに、その「鍛冶町のけんじ」とは昭和3年に函館に追われた「八重樫賢師」その人に他ならないと確信した。なぜならば、その「八重樫賢師」の家は鍛冶町のかつての「八重樫麩屋さん」だからである。そしてこのことは、名須川溢男の論文「賢治と労農党」中の、
 八重樫賢師とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき……
            <『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)266p>
という記述も裏付けてくれる。
 よって、
・八重樫賢師は宮澤賢治とかなり親交が深かった。
・八重樫賢師は「下ノ畑」の傍で農園を開いていた。
ことはほぼ間違いない事実であった判断してよさそうだ。なお『新校本年譜』の310pには、八重樫賢師は花巻農学校で行われたあの国民高等学校の聴講生であったという記載もある。
 以上、これらのことに基づけば、昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして花巻でも無産運動等に対してすさまじい「アカ狩り」が行われていたことは紛れもない事実であり、同年8月頃に八重樫は特高から追われて函館に奔ったということはほぼ事実であったと判断できる。
 また、前出の小館長右ェ門についても、
 労農協議会に属し、最も戦斗的な小館長右ェ門が八月無産運動より逃避し、北海道、小樽に移転、商業を営む。
           <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p~>
と、上田仲雄氏は「岩手県無産運動史」で述べている。そこで、賢治が実家に戻った時期がちょうどその「八月」だったということに特に注意すれば、当時のそのような社会情勢と賢治の労農党との親和性に鑑みて、賢治も特高等からの強い圧力は避けられなかったことはもはや疑いようがなかろう。言い換えれば、賢治が実家に戻ったことが昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして起こったすさまじい「アカ狩り」と全く無関係だったとはもはや言えなかろう。

 なお、
  〝「八重樫賢師と宮澤賢治」の目次
特に、
  〝八重樫賢師の大活躍振り
も是非ご覧下さい。

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    来る6月9日(日)、下掲のような「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開催しますのでご案内いたします。 

    2024年6月9日(日) 10:30 ▶ 13:30
    なはん プラザ COMZホール
    主催 太田地区振興会
    共催 高村光太郎連翹忌運営委員会 
       やつかのもり LCC 
    参加費 1500円(税込)

           締め切り 5月27日(月)
           先着100名様
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