みちのくの山野草

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名須川の「賢治の肥料設計指導」論に疑問

2019-02-02 12:00:00 | 賢師と賢治
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)

 今までの流れでいえば、今度は「労働運動の若き闘士、賢治の教え子賢師ついに函館にて逝く」という項に入るのだが、この項については既に〝賢師が逝く三ヶ月前の書簡より〟で言及しているし、それ以降についても「四 むすびにかえて」の前までは一度触れたからそこまでは割愛し、いよいよ最後の「四 むすびにかえて」に入る。

 名須川はそれをこう切り出していた。
       四 むすびにかえて
 かくして、今まで述べてきたように昭和三年の大弾圧を経て、今や社会運動、農村改革運動は「合法的」範囲内に閉じこめられ、制限された運動に抑えられてしまったのである。
 賢治は肥料設計指導に没入し村をまわり、稲作の増収が何よりも今の緊急の重要な仕事と考え、農民を救うのはそれ以外にない、とした。そのような時代になってしまった。
…………①
             〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)501p〉
 しかし、なぜ名須川は、「賢治は肥料設計指導に没入し村をまわり、稲作の増収が何よりも今の緊急の重要な仕事と考え、農民を救うのはそれ以外にない、とした」と断定できたのだろうか。そしてそもそもこれは事実だったのであろうか。
 先にも私は首を傾げたのだが、上掲の記述でも同様で、どうも名須川は「昭和三年の大弾圧を経て」社会運動等が制限され抑えられていったので、そのことによって賢治の活動は肥料設計指導に絞られていったと認識しているようだ。だが、例えば、賢治がまさにそのような大弾圧を受けて、すなわち凄まじい「アカ狩り」の煽りを受けて、下根子桜から撤退して実家に戻って謹慎していたのは同年の8月10日以降であり、大弾圧を経て、「賢治は肥料設計指導に没入し村をまわり……とした」という断定はできないのではなかろうか。この場合、「賢治は肥料設計指導に没入し村をまわり」ということは物理的にできなかったはずだからである。

 そこで次に、この件に関してもう少し詳しく分析的に調べてみたい。
 まず第一に、賢治が肥料設計指導に没入したことが客観的にわかる一つの具体的な例はあの、昭和3年3月に石鳥谷で行われた「塚の根肥料相談所」におけるそれだ。それは、この時の最初の弾圧とも言える「三・一五事件」の起こった、まさにその日である3月15日に始まったと言われているので、「昭和三年の大弾圧を経て、賢治は肥料設計指導に没入し」とは言えないのではなかろうか。

 そして第二に、この年の農繁期の6月7日に花巻を発ち宮澤賢治は農繁期の故里を離れて約3週間も上京していたわけだが、先に、この時の上京は佐藤竜一氏も主張する「逃避行」であったという蓋然性が高いことを知った
 しかも、賢治は『MEMO FLORA手帳』に、
 16 図、浮、[築、→P]
 17 築
 18 新、
 19 新、
 20 市、
 21 図、浮、本、明、
 22 ―甲府
 23 ―長野
 24 ―新潟
 25 ―山形
             <『校本 宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)>
とメモしているということだから、この上京の際に「甲府、長野、新潟、山形」にも立ち寄ろうと当初計画していたしていたことがほぼ間違いなかろう。したがって、賢治はもっと長期間に亘る「逃避行」を計画していたということも考えられる。
 さらに、その際には、「大島行」を終えたならば即帰花したと思いきやそうはせずに、浮世絵鑑賞に、そして連日のように観劇に出掛けていたという。あるいは図書館に通って、緊急のこととは思えない「MEMO FLORA手帳」へのスケッチ等していたという。
 その上帰花後についても、書簡(240)の下書(一)の中で、
 こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。
            <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
と賢治は書いているから、少なくともこの時期の約一ヶ月は「肥料設計指導に没入し村をまわり」ということは物理的に不可能だ。
 一方で、賢治の詩〔澱った光の澱の底〕について『新校本年譜』等は、「六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕> 」と推定している。そこでついつい、帰花直後に賢治は「南は二子の沖積地から/飯豊 太田 湯口 宮の目/湯本と好地 八幡 矢沢とまはって」大車輪で稲作指導にかけずり回っていたと受け止めている読者等も多いようだが、こんなことがほぼできないことは実際に移動距離を調べてみれば容易にわかる
 そして賢治自身も、「南は二子の沖積地から/飯豊 太田 湯口 宮の目/湯本と好地 八幡 矢沢とまはった」とは詠んでいない。あくまでも「南は二子の沖積地から/飯豊 太田 湯口 宮の目/湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう」と詠んでいるだけであり、あくまでも「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」と予定をあるいは「あした」の意気込みを単に詠んでいるに過ぎない。
 つまるところ、同年6月の農繁期のこの約1ヶ月間は少なくとも「肥料設計指導」はできなかったということとなる。おのずから、この期間は「賢治は肥料設計指導に没入し村をまわり」とは言えない。

 さらに第三に、賢治はこの時の帰花後、
 賢治は近隣の農家を訪ねまわり、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
            〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)所収の「宮澤賢治年譜」より〉
というのが通説だが、この通説はどうやら「賢治神話」の一つであり、その真相は違っていたということを私は拙著『本統の賢治と本当の露』(ツーワンライフ出版社)の84p~〝㈥「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」〟において明らかにした。

 そして最後となる第四に、同年の8月10日以降についてだが、その日以降の賢治は実家に戻って病臥していたのだから、到底「賢治は肥料設計指導に没入し村をまわり」とまでは言えない。そして、やっと昭和6年になると賢治の病状は一時回復して東北砕石工場の嘱託として東奔西走するが、それはタンカルについての販売が主であり、残念ながら「稲作の増収が何よりも今の緊急の重要な仕事と考え、農民を救うのはそれ以外にない」とは直結しない。なぜならば、石灰岩抹(タンカル)は土壌の酸性を改善するためには有効だが、水稲の最適な土壌は弱酸性~微酸性であり、中性であることでもましてアルカリ性であることでもないからである。しかも、当時の農家の約6割が小作農家だから、金肥等を購入する余裕などほぼ無かったからである。したがって、
賢治の「肥料設計指導」を仮に受けたとしても、それが実践できるのは比較的に金銭の余裕のある、いわば中農以上の場合であったであろう<*1>ことが論理的に導かれるのではなかろか
つまり、賢治の肥料設計指導を実際にそのとおりに行い得た農家はほんの一にぎりの農家(具体的な数値は後ほど示す)だけであった、というのが現実だったのではなかろうか。

 というわけで、上掲の「第一に」~「第四に」以外の期間に「賢治は肥料設計指導に没入し村をまわり」ということがあったとしても、それが可能な期間は例えばせいぜい昭和3年の4月~5月の間だけであり、そのことをもってして、名須川の主張するような〝①〟は私には肯うことはできない。

 畢竟、「稲作の増収が何よりも今の緊急の重要な仕事と考え、農民を救うのはそれ以外にない、とした」については、せいぜい推定表現まではできたとしても、このような断定表現は無理ではなかろうか。
 そしてそもそも、「稲作の増収が何よりも今の緊急の重要な仕事と考え、農民を救うのはそれ以外にない、とした」となぜ名須川は断定できたのだろうか。そこまで賢治の心の中にまで入り込めたのであろうか。少なくとも、そのことの考察を名須川がここで論じていない以上、名須川のこの「断定」に私は安易に与するわけにはいかない。言い換えれば、賢治の「肥料設計指導」についての名須川の推論は、観念的であり、実証的な裏付けが乏しいように私には見えてならない。したがって、名須川の論ずるところのこのような「賢治の肥料設計指導」論については、私は疑問符を付けざるを得ない。

<*1:註> ちなみに、羅須地人協会の直ぐ西隣の協会員の伊藤忠一は、
 私も肥料設計をしてもらいましたが、なんせその頃は化学肥料が高くて、わたしどもには手が出ませんでした。
           <『宮沢賢治―地人への道―』(佐藤成著、川嶋印刷)>
ということだし、高橋末治(鍋倉)の聞書においては、それは大正13、14年頃の農会主催の講習会に関するものだが、
 (賢治の)肥料設計のお話しを聞いた我々の感じでは〝今までの施肥よりは、ずっと多くの肥料を使うものだな〟〝高價なものだな〟ということでした。
 化學肥料というものを(農藥も)耳新しく聞いた人たちが、その場では多かったのです。折角教えていただいても、高價な肥料代と、それにくっついている様々の危惧感から、すぐについていけない人も相當あったのが事實です。
              <『宮澤賢治研究 宮澤賢治全集別巻』(草野心平編、筑摩書房、昭和44)275p>
と語っているという。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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