みちのくの山野草

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陸軍大演習と大弾圧

2019-01-30 16:00:00 | 賢師と賢治
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)

 では今度は「昭和三年秋の陸軍大演習と大弾圧」という項に移ろう。名須川はこう言う。
 岩手県内で昭和三年秋、陸軍の大演習がおこなわれ、天皇の行幸があったが、それらのことからさらに社会運動の大弾圧があった。
           〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)493p〉
 ただしこの文章には少し首を傾げてしまう。というのは、この文章であれば、大弾圧は行幸後にあったと誤解される虞があると私は思うからだ。そこで念のために少し付け加えれば、
 岩手県で初めて行われたこの「陸軍特別大演習」を前にして、岩手県下で凄まじい「アカ狩り」が行われたのであり、特に8月頃のそれは徹底していて、例えば、既に触れたように八重樫賢師、小舘長右衛門はそれぞれ函館、小樽へ所払いになり、果ては盛岡中学の英語教師の平井直衛でさえも同時期に職を奪われている。
のであって、行幸後ではなく、その前の8月頃には既に大弾圧、つまり凄まじい「アカ狩り」が県下で吹き荒れていたはずだ。

 そして名須川は次の資料を引用していた。
    (十一)陸軍大演習の大弾圧
 十月初め五日間陸軍特別大演習あり。田中政友会内閣名旅に本県知事丸茂藤平等この機を以て本県無産運動の徹底的殲滅を期し暴圧前後稀なり。甚しきは九月上旬にして浮浪罪その他警察犯処罰令を以て刑務所に送致されるものありて全県下に及ぶ。…(投稿者略)…然るに陛下行幸直前二週間にして一条署長転任し高橋小兵衛署長となり弾圧方針変改され、市内検束予定者三十余名中僅か五、六名に減ぜられ、検束予定者には署長旅費を給し他府県に逃れしむ。…(投稿者略)…全県下に於て一週間以上一月内外の拘束に処分されし者左の如し
 千厩署 伊藤勇雄 水沢署 後藤政久 福地正治、小野寺徳三郎
 盛署 野々村善三郎 釜石署 菊地吉太郎 宮古署 佐々木文一他数名 
 花巻署 川村尚三 八重樫賢志(ママ) 黒沢尻署 高橋与吉
 日詰署 高橋真一郎 盛岡署 横田忠夫
即三・一五事件に引続く弾圧に大演習有手全県下の陣営殆ど壊滅す、拘束せられざる党員も又外出を禁止され、警官に張り込まれ恐怖を感ぜしめられたれば大演習を契機として第一回の生産を行えるものと言うべし(「無産運動史草稿」) 
              〈『岩手の歴史と風土―岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)493p~〉             
 そうか、やはりそういうことだったのか。残念ことではあったが私はこれで納得した。「検束予定者には署長旅費を給し他府県に逃れしむ」ということだったのか、と。このような懐柔策によって、八重樫賢師は函館に、小館長右エ門は小樽に奔らざるを得なかったのだ。

 なおこの件に関しては、上田仲雄氏は論考「岩手無産運動史」の中で、
 無産運動に凶暴な弾圧が加えられたことである。五月以降一条盛岡署長による無産運動え(ママ)の圧迫はげしくなり、旧労農党支部事務所の捜査、党員は金銭、物品、商品の貸借関係を欺偽、横領の罪名で取り調べられ、党員の盛岡市外の外出は浮浪罪をよび、七月党事務所は奪取せらる。一方盛岡署の私服は党員を訪問、脱退を勧告し、肯んじない場合は勾留、投獄、又は勤務先の訪問をもって脅かし、旧労農党はこの弾圧に数ヶ月にして殆ど破壊されるに至っている。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭した高橋新盛岡警察署長により無産運動家の大拘束(26)が行われた。この大拘束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向(27)が生じ、岩手無産運動の一つの転機を孕んで来た。
              <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54p~>
と論じていて、(26)、(27)の註釈をそれぞれ次のようにしていた。
(26) 一週間~一日内外の検束処分にされたものは次の様である。
 千厩署 伊藤勇雄、盛署 野々村善三郎、水沢署 後藤政久、福地正治、小野寺徳三郎、釜石署 菊地吉太郎、宮古署 佐々木文一、黒沢尻署 高橋与吉、日詰署 高橋真一、花巻署 川村尚二(ママ) 八重樫賢志(ママ)、盛岡署 横田忠夫、 
(27) 労農協議会に属し、最も戦斗的な小舘長右ェ門が八月無産運動により逃避し、北海道、小樽に移転、商業を営む。
             <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p~>
そこで私は、この二つの記述「一週間以上一月内外の拘束」と「一週間~一日内外の検束」の間に違いがあることに気付く。実は以前から、後者の表記に違和感を抱いていたのだが、後者の「一日」は実は「一月」の間違いであり、前者の「一週間以上一月内外の拘束」の方が正しかったのだと判断できた。ちなみに、あの梅野建造はこの時に45日ほど拘束されていたということだから、この判断はほぼ間違いかろう。
 するとおのずから、この時に賢治も特高からの圧力は免れ得なかったであろうから、名須川もこのことについて言及しているのかなと思って注意深く探してみたのだが、この論文の中には一切それは見つけられなかった。それにしても、岩手高教組の委員長までつとめた名須川溢男が、この時の大弾圧と賢治のことに関して一言も言及していなかったということが、私にはとても不思議だ。しかも、この論文のタイトルが「近代史と宮沢賢治の活動」だというに、だ。

 その一方で、名須川はこう続けて述べていた。
 賢師は川村尚三とともに花巻警察署拘留された。賢治の教えをうけ、自ら小作人となり労農党の活動に没頭、東奔西走していた。しかし、若く何の特権も保護も無いかれは人間として権利も奪われ追放され、岩手県内に居ることを許されず、やむなく病身を函館の叔父のもとに寄せざるを得なかった。
            〈同494p〉
 そこで私は膝を叩いた。そうか、あの頃「東奔西走」していたのは八重樫賢師の方だったのかと。そして同じ頃、賢治は父の庇護があって、病気ということにして自宅で謹慎していたと言えるが、一方の賢師は病身でありながら函館に追われ、傷心のうちにあっという間に客死したということになりそうだ。改めて賢師の冥福を祈りたい。

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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