《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
さて、ここでは「塚の根肥料相談所」に関わることを述べたいが、その相談所はどこに開設されたのかというと、現在の石鳥谷交番の直ぐ隣といっていいほどのところにあり、そこには次のような案内板が立ててある。《「石鳥谷肥料相談所跡」案内板》(平成22年2月12日撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/07/bbd6781315754221ea6a7859011483a1.jpg)
石鳥谷肥料相談所跡
昭和三年三月十五日から一週間、ここで宮沢賢治先生による肥料相談所が開設されました。これは、賢治先生の愛弟子であった菊池信一氏の努力と、当時の柳原一郎町長や照井源三郎氏の協力によって実現したものでした。
当時の相談所の面影は写真でしかわかりませんが、菊池信一氏は、「石鳥谷肥料相談所の思い出」の一文に、その模様を次のように表しています。
『店には八畳敷と土間が提供され、荒作りの大きな卓子(テーブル)と大鉢が二・三個あり、囲りの壁には三色で無造作に描かれた肥料と水稲の図が十数枚貼られ、かぜにガワガワゆらいでいた。毎朝七時半の列車で石鳥谷駅におり立った賢治先生は、羅紗の鳥打帽子に茶羅紗の洋服をまとわれていた。そして、ゴムのだるま靴を履かれ、鞄を抱えた左肩を斜めに上げて右腕を大きく振って来られた。
相談所にはすでに十人も待って居り、農民達は皆外に出て先生を迎えた。
毎朝午前八時より午後四時まで休む暇もなく続けざまに肥料設計をされたが、煙草を喫わない先生は一々ていねいにお辞儀をされながら用紙を取り出して順番を譲り合っている農民に対応された。
「石鳥谷の人達はみんな質がいい」先生はいつか云われた。そして又「河西の人達は一帯に土地が痩せていて農作には尠しも油断がならないのです。こうした一面からも因襲的に村の人達の性質が培われるのでせう」と。九時十時とすすむにつれ、人が増えて来た。仕事を分担して僕は土地の景況と前年度の栽培状況を調査。先生はその後をうけて今年度の施用肥料の後をうけて今年度の施用肥料の設計をやられた。
大馬力で三十枚ほども整理し、お昼飯をしたのは一時すぎだ。午後は「稲作と肥料」に関する講演であった。
その年は天候不順であったが、設計に当たっては陸羽一三二号種を極力勧められた。これにより秋は二割方増収であった。」
この肥料相談所と周りの情景を 詩「三月」として賢治先生は残されています。
どうやら、この肥料相談所は石鳥谷好地塚根に開設されたので「石鳥谷肥料相談所」とか「塚の根肥料相談所」と呼ばれているようだ。そして、この相談所については多くの研究者が論考を発表しているのでその詳細はここでは割愛し、あまり取り上げられていないと思われることを少し触れて置きたい。昭和三年三月十五日から一週間、ここで宮沢賢治先生による肥料相談所が開設されました。これは、賢治先生の愛弟子であった菊池信一氏の努力と、当時の柳原一郎町長や照井源三郎氏の協力によって実現したものでした。
当時の相談所の面影は写真でしかわかりませんが、菊池信一氏は、「石鳥谷肥料相談所の思い出」の一文に、その模様を次のように表しています。
『店には八畳敷と土間が提供され、荒作りの大きな卓子(テーブル)と大鉢が二・三個あり、囲りの壁には三色で無造作に描かれた肥料と水稲の図が十数枚貼られ、かぜにガワガワゆらいでいた。毎朝七時半の列車で石鳥谷駅におり立った賢治先生は、羅紗の鳥打帽子に茶羅紗の洋服をまとわれていた。そして、ゴムのだるま靴を履かれ、鞄を抱えた左肩を斜めに上げて右腕を大きく振って来られた。
相談所にはすでに十人も待って居り、農民達は皆外に出て先生を迎えた。
毎朝午前八時より午後四時まで休む暇もなく続けざまに肥料設計をされたが、煙草を喫わない先生は一々ていねいにお辞儀をされながら用紙を取り出して順番を譲り合っている農民に対応された。
「石鳥谷の人達はみんな質がいい」先生はいつか云われた。そして又「河西の人達は一帯に土地が痩せていて農作には尠しも油断がならないのです。こうした一面からも因襲的に村の人達の性質が培われるのでせう」と。九時十時とすすむにつれ、人が増えて来た。仕事を分担して僕は土地の景況と前年度の栽培状況を調査。先生はその後をうけて今年度の施用肥料の後をうけて今年度の施用肥料の設計をやられた。
大馬力で三十枚ほども整理し、お昼飯をしたのは一時すぎだ。午後は「稲作と肥料」に関する講演であった。
その年は天候不順であったが、設計に当たっては陸羽一三二号種を極力勧められた。これにより秋は二割方増収であった。」
この肥料相談所と周りの情景を 詩「三月」として賢治先生は残されています。
川村與左衛門の証言
まずは、『花巻農業高校90周年記念誌』(花巻農業高校)所収の座談会「賢治先生をしのび語る」の記録の中の次のような川村與左衛門の証言である。
大正15年の夏休みでしたか、石鳥谷の駅前で、2年ほど宮沢先生が肥料設計をやっていた時代があります。その時、私達も手伝ってくれという事でした。新聞に書いたものを農家に回して歩いて、そうすると、田んぼの土を一つかみ新聞に包んで持ってきて、それを先生が見て、
「ほでこの田んぼには、マメタマ1枚、あるいは1枚半、硫安何貫目、あるいはダラ(人糞尿)を何荷、1かつぎ1荷だから、何荷すれば、また1反歩で何石ぐらい取れる。」
ということを1週間くらい来て指導していった訳です。
この川村與左衛門は花巻農学校を大正14年に卒業しているから、大正12年入学、大正13年2年生であったということになろう。そうすると、件の「大正15年の夏休み」とは卒業翌年大正15年の夏休みということになる。そしてその時に川村は賢治からかり出されて石鳥谷の駅前に開設した肥料相談所の手伝いをしたのであろう。もちろん、この川村のいうところのその「肥料相談所」とは「塚の根肥料相談所」のことであろう。「ほでこの田んぼには、マメタマ1枚、あるいは1枚半、硫安何貫目、あるいはダラ(人糞尿)を何荷、1かつぎ1荷だから、何荷すれば、また1反歩で何石ぐらい取れる。」
ということを1週間くらい来て指導していった訳です。
したがって、この川村の証言に基づけば、「塚の根肥料相談所」は「大正15年の夏」にも開かれており、その場合の時期は3月でないということを教えてくれる。そしてまた、それは2年ほど開かれたということになる。しかも、菊池も言っているようにその期間は「一週間」程であったということにも注意をしておきたい。なぜならば、菊池の言っているところの「石鳥谷肥料相談所」と川村の言っている2年ほど開設した「肥料相談所」の一つは一致しているであろうからである。その一方で、川村はそれが昭和和3年に行われたという直截的な証言していないし、ましてそれが昭和3年3月15日から始まったとも言っていない。どうも、「昭和三年三月十五日から一週間、ここで宮沢賢治先生による肥料相談所が開設されました。」の裏付けが心許ないのである。
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