《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>ところで、『新校本年譜』は先に触れたように、昭和3年
六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>
と、その根拠も示さずに推定しているが、はたしてその根拠は何なのだろうか。
さて、「伊豆大島行」を含む20日間弱の滞京を終えて帰花、下根子桜に戻って後の賢治であるが、『新校本年譜』等によれば、
6月24日 帰花
7月18日 農学校へ行き堀籠に稲の病気検査依頼。
8月10日 賢治健康を害し自宅に戻り、病臥。(推定)
8/10~40日間「疾む」(熱と汗に苦しむ)とノートにメモ。
8月中旬 菊池武雄、藤原嘉藤治下根子を訪れるも賢治不在(既に賢治は実家へ)。
9月 5日 妹クニの養子縁組(賢治病臥中で宴に欠)
9月 草野心平から「コメ一ピョウタノム」の電報
12月 急性肺炎になり自宅療養。
ということになろう。7月18日 農学校へ行き堀籠に稲の病気検査依頼。
8月10日 賢治健康を害し自宅に戻り、病臥。(推定)
8/10~40日間「疾む」(熱と汗に苦しむ)とノートにメモ。
8月中旬 菊池武雄、藤原嘉藤治下根子を訪れるも賢治不在(既に賢治は実家へ)。
9月 5日 妹クニの養子縁組(賢治病臥中で宴に欠)
9月 草野心平から「コメ一ピョウタノム」の電報
12月 急性肺炎になり自宅療養。
そこで次に、この帰花後の賢治の心境や稲作指導振りなどを知りたいので、その〔澱った光の澱の底〕を見てみたい。それは次のようなものであるという。
〔澱った光の澱の底〕
夜ひるのあの騒音のなかから
わたくしはいますきとほってうすらつめたく
シトリンの天と浅黄の山と
青々つづく稲の氈
わが岩手県へ帰って来た
こゝではいつも
電燈がみな黄いろなダリヤの花に咲き
雀は泳ぐやうにしてその灯のしたにひるがへるし
麦もざくざく黄いろにみのり
雲がしづかな虹彩をつくって
山脉の上にわたってゐる
これがわたくしのシャツであり
これらがわたくしのたべたものである
眠りのたらぬこの二週間
瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが
さああしたからわたくしは
あの古い麦わらの帽子をかぶり
黄いろな木綿の寛衣をつけて
南は二子の沖積地から
飯豊 太田 湯口 宮の目
湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)283p~より>夜ひるのあの騒音のなかから
わたくしはいますきとほってうすらつめたく
シトリンの天と浅黄の山と
青々つづく稲の氈
わが岩手県へ帰って来た
こゝではいつも
電燈がみな黄いろなダリヤの花に咲き
雀は泳ぐやうにしてその灯のしたにひるがへるし
麦もざくざく黄いろにみのり
雲がしづかな虹彩をつくって
山脉の上にわたってゐる
これがわたくしのシャツであり
これらがわたくしのたべたものである
眠りのたらぬこの二週間
瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが
さああしたからわたくしは
あの古い麦わらの帽子をかぶり
黄いろな木綿の寛衣をつけて
南は二子の沖積地から
飯豊 太田 湯口 宮の目
湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
この詩からは、帰花した途端に賢治は東京での己の行動に良心の呵責を覚え始め、これではならじということを悟り、「あした」からはかつてのような〝地人〟に戻らなければならぬと強く決意(こう解釈すれば、たしかにこの詩は帰花後に詠んだと思われる)したのではなかろうかとも忖度できる。下根子桜をしばし留守にしていたがために頭の隅に追いやられていた近隣の農家や農民のこと、わけても彼らの水稲の生育状況等が突如心配になってきた賢治であったのかもしれない。
「つぎつぎあしたはまはって行かう」について
それにしても、
南は二子の沖積地から
飯豊 太田 湯口 宮の目
湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
…(略)…
みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
ということになれば、かなり広範囲を巡回することになるし、それを「つぎつぎ」ということであれば、「眠りのたらぬこの二週間/瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来た」賢治にとってはそれは無謀なものとなってしまう恐れがある。
そこでこのことを少しく検証してみたい。そのために、この行程を地図上に書き加えてみると下図のようになる。
【巡回予定場所(二子、飯豊、太田、湯口、宮野目、湯本、好地、八幡、矢沢】
<『巖手縣全圖』(大正7年、東京雄文館藏版)より抜粋>
次にこの地図上で巡回地点間の距離を測ってみると、おおよその目安として、
下根子桜→8㎞→二子→6㎞→飯豊→6㎞→太田→4㎞→湯口→8㎞→宮野目→6㎞→
湯本→8㎞→好地→2㎞→八幡→8㎞→矢沢→7㎞→下根子桜
となろう。つまり湯本→8㎞→好地→2㎞→八幡→8㎞→矢沢→7㎞→下根子桜
全行程最短距離=(8+6+6+4+8+6+8+2+8+7)㎞=63㎞
となろう。では、この全行程を賢治ならば何時間ほどで廻りきれるだろうか。一般には1時間で歩ける距離は4㎞が標準だろうが、賢治は健脚だったと言われているようだから仮に1時間に5㎞歩けるとしても
最短歩行時間=63÷5=12.6時間
となり、歩くだけでも半日以上はかかる(賢治は自転車には乗らなかったし乗れなかったと聞くから、歩くしかなかったはずだ)。しかも、これはあくまでも移動に要する最短時間である。道は曲がりくねっているだろうし、橋のない川を渡る訳にもいかなかっただろう。まして、その上に稲作指導のための時間を考慮すれば「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって」しまえそうにはない。
そのうえ、
眠りのたらぬこの二週間
瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来た
賢治にとっては、この詩に
ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
と詠んだようにはいかなかったであろうこと、この全行程を一日で廻りきるのはちょっと無理であろうことはほぼ自明である。
意気込みと歴史的事実
実際、次の7月3日付菊池信一宛書簡〔239〕には
お変りありませんか。先日は結構なものをまことにありがたう。肥料の本を自働車にたのんで置いてそれがしぱらく盛岡行をやめて届かなかったのでまだ手許にあります。ちやうど追肥をしらべる時季ですが今年はこの通りの天候でとてもさきの見先もつきませんし心配なことは少しもありませんが追肥だけはみんなやらないことにしやうと思ひます。どの肥料もまだ殆んど利いてゐないのです。それで約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして来年の見当をつけるだけのことにしやうと思ひます。お手数でも訊かれたらどうかさうご返事ねがひます。約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。もしお仕事のすきまにおいでになれるならお待ちして居ります。葉書をさきにお出しください。肥料の本もそのときはお返しいたせます。一番除草でお忙しいでせうが折角お身体大切に。 まづは。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)256p~より>としたためられているから、菊池の住んでいる石鳥谷好地のなどはこの時には廻らずに、「約束の村」については7月下旬~8月中旬になってから廻ったという可能性がある。なぜなら、7月3日付書簡にて「約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました」という滞京の内容を菊池に明かしているのだから、この詩でいうところの「あした」という日に賢治は菊池と会っていなかったであろうと判断できそうだからだ。
となれば、あくまでも賢治は「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」と「前日」に思っただけのことであり、その意気込みを詠んでいるだけだということになろう。とかく私などは、以前であれば、
この詩を読んで、賢治ならばその「あした」にはこの地域をことごとく廻ったことであろうと思い込み、その超人ぶりにいたく感動していた。
はずだ。でもようやくここに至って私は、勿論そのような思い込みは排除せねばならぬことや、「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」はあくまでも賢治の意気込みを詠っているだけであり、それがその通りに行われたということを検証もなしに「歴史的時事実」に還元はできないのだということが、やっとわかってきた。続きへ。
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