みちのくの山野草

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どうしてそこまで断定できるのだろうか

2019-02-05 08:00:00 | 賢師と賢治
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)

 名須川はこんなことも書いていた。
 昭和三年以降の賢治の作品や書簡については、かなり時代背景を十分に考慮して読まなければならない。すでに閉鎖され、抑えられ、社会運動弾圧禁止(ママ)の時代であり、労農党活動に関係して取調を受けたり、羅須地人協会もおそらく密かに家宅捜査されているかもしれない(『宮沢賢治の思想と生涯』柴田まどか著 洋々社、一九九六。一九八頁に鋭い指摘がある)。
             〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)505p〉
 たしかにそのとおりかもしれない。そこで早速、『宮沢賢治の思想と生涯』の一九八頁とついでに一九九頁を見てみた。そこには、
る。賢治の詩は第一集からして暗示的な言い回しと語彙が用いられており、人々に詩の意味が理解されなかった理由はそこにあるのだが、第三集の詩もやはり明確な表現は用いず、怒りをぶつけるときでさえ、譬喩に徹している。
 だが、この時期の賢治が比喩的な表現を用いた理由は、警察が彼の留守中に羅須地人協会の室内を捜索していたからでもある。特高のしつこさと陰湿さは蛇に例えられたが、政治犯・思想犯をとりしまるために特設された特高はあらゆる権限を与えられていた。五月十二日の「今日こそわたくしは/どんなにしてあの光る青いあぶどもが風のなかから迷って/わたくしのガラスの室の中にはひって/わたしの留守室の中をはねあるくか/すっかり見届けたつもりである」<*1>という詩は、その事実を告げるものであったろう。
 マンダーラ花として愛したマグノリア(こぶし)の花ではなく、栗の黄色い花に自分の理想を託すようになった賢治は、この時期の詩に「黄」という言葉を多用している。それは奇異な感じを受けるほどの多さであるが、「黄」は理想を現す色であると同時に、軍人の服装の色でもあったのではないだろうか。トルストイ的な清教徒風の詩において水仙の色として「黄」を綴りながら同じ詩の一節に「犬 黄色なむく犬め」と綴る矛盾は、賢治が「黄」の色に、自分の理想と、理想実現の道を阻もうとする軍部との両方を見ていた事実から生じるように思われるのである。二月に花巻警察署の事情聴取を受けた賢治は、その後に詩「警察署長」という言葉を使っ[ここまでが198p。ここ以降から199p]

たりもしているが、その尋問は普通の警察官ではなく、特高が中心であったろうし、軍人も同席していたであろう。トルストイや賢治の思想と対立するのが軍部の思想である。賢治が詩ノートに二つの意味を込めて「黄」の色を使い、詩ノートというキャンバスに黄色い絵の具を激しくちりばめているように感じられるのは、自らの苦悩の色に託したゴッホの絵をイメージしてのことであったと思われる。
 また、政治権力によって自分の思い描いた理想世界実現の道を阻まれた賢治は、五月九日の詩に「苹果の枝を兎に食はれました/桜んぼの方は食ひませんで/桃もやっぱり食はれました」と書くが、一見意味不明のこの詩は、芽を出した若木のように伸びようとしていた彼の理想が阻止されたことをいうものである。「苹果」はトルストイ的な理想を意味し、「桃」は「イーハトーヴ」という言葉に込めた「理想郷」「桃源郷」を意味するものである。
 中国のユートピア物語のひとつ、晋の陶淵明(三六五~四二七)が書いた『桃花源記』は、政治権力が引き起こす戦乱を避けて、ひっそりと暮らしている人々が創り上げている平和で豊かな世界を描いたものである。そこには金殿玉楼も山海の珍味もなく、人々の服装も生活もすべてが日常のものであるが、ただ永遠の平和がある(「中国のユートピア桃源郷」一海知義)。「イーハトーヴ」という言葉に、理想世界を託した賢治の願いは、何よりもそうした世界の実現をめざすものであった。
           〈『宮沢賢治の思想と生涯』(柴田まどか著、洋々社)198p〉
と述べられていた。

 さて、それではそもそも、名須川が「一九八頁に鋭い指摘がある」と言った個所は一体どこなのであろうか。それは、素直に受け取れば、前段の「労農党活動に関係して取調を受けたり、羅須地人協会もおそらく密かに家宅捜査されているかもしれない」を受けての、「一九八頁に鋭い指摘がある」ということであろうから、私としては、
 この時期の賢治が比喩的な表現を用いた理由は、警察が彼の留守中に羅須地人協会の室内を捜索していたからでもある。
のことを、名須川は指していたと判断した。
 そこでもしこの私の判断が正しいとすれば、
 (柴田氏が、)なぜ「警察が彼の留守中に羅須地人協会の室内を捜索していた」と断定できたのかというと、それは「この時期の賢治が比喩的な表現を用い」ていた………⑤からである。
という論理になる。
 しかし、この論拠は弱いのではなかろうか。それは、いわば必要条件であっても十分条件ではないからである。だから、もし「警察が彼の留守中に羅須地人協会の室内を捜索していた」と断定したいのであれば、例えばこの〝⑤〟を基にして、仮説検証型研究によって実証した後のことではなかろうか。しかしそれは為されていないからこの段階で言えることは、せいぜい、
 このような論拠〝⑤〟によって、「警察が彼の留守中に羅須地人協会の室内を捜索していた」という蓋然性が低くない。
というところまでであろう。
 言い方を換えれば、この柴田氏の発想はなかなかグッドアイディアだが、これだけでは、「警察が彼の留守中に羅須地人協会の室内を捜索していた」ということは断定できない。それは、そもそも、「この時期の賢治が比喩的な表現を用い」ていたかいなかに拘わらず、その他の多くの事柄のうちの、その中の一つの事柄からでもこれと同様に「警察が彼の留守中に羅須地人協会の室内を捜索していた」という可能性を主張できるからである。例えば、小原忠の、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらもチェックされる今では到底考えられない時代であった。
            〈『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)4p〉
という証言によってである。

 そこで言いにくいことではあるが、どうやら名須川溢男のこの論文「近代史と宮沢賢治の活動」の「四 むすびにかえて」に限っては、どうもこれまでの名須川らしくない観念的・情緒的な推論の傾向があると、私は言わざるを得なさそうだ。もちろん、柴田氏の着想力や想像力の豊かさは私も大いに評価するところだが、それらは可能性の一つを言っているだけである。だから、名須川はなぜ「鋭い指摘」とまで言い切ったのだろうか、私は不思議でならない。

 そして一方で、私が『宮沢賢治の思想と生涯』(柴田まどか著、洋々社)の198~119pを読んだ限りでは、どうしてここまで断定的な表現ができるのかということも、不思議でならない。具体的には、下掲の赤い文字部分が特にそうである。
る。賢治の詩は第一集からして暗示的な言い回しと語彙が用いられており、人々に詩の意味が理解されなかった理由はそこにあるのだが、第三集の詩もやはり明確な表現は用いず、怒りをぶつけるときでさえ、譬喩に徹している。
 だが、この時期の賢治が比喩的な表現を用いた理由は、警察が彼の留守中に羅須地人協会の室内を捜索していたからでもある。特高のしつこさと陰湿さは蛇に例えられたが、政治犯・思想犯をとりしまるために特設された特高はあらゆる権限を与えられていた。五月十二日の「今日こそわたくしは/どんなにしてあの光る青いあぶどもが風のなかから迷って/わたくしのガラスの室の中にはひって/わたしの留守室の中をはねあるくか/すっかり見届けたつもりである」という詩は、その事実を告げるものであったろう。
 マンダーラ花として愛したマグノリア(こぶし)の花ではなく、栗の黄色い花に自分の理想を託すようになった賢治は、この時期の詩に「黄」という言葉を多用している。それは奇異な感じを受けるほどの多さであるが、「黄」は理想を現す色であると同時に、軍人の服装の色でもあったのではないだろうか。トルストイ的な清教徒風の詩において水仙の色として「黄」を綴りながら同じ詩の一節に「犬 黄色なむく犬め」と綴る矛盾は、賢治が「黄」の色に、自分の理想と、理想実現の道を阻もうとする軍部との両方を見ていた事実から生じるように思われるのである。二月に花巻警察署の事情聴取を受けた賢治は、その後に詩「警察署長」という言葉を使っ[ここまでが198p。ここ以降から199p]
たりもしているが、その尋問は普通の警察官ではなく、特高が中心であったろうし、軍人も同席していたであろう。トルストイや賢治の思想と対立するのが軍部の思想である。賢治が詩ノートに二つの意味を込めて「黄」の色を使い、詩ノートというキャンバスに黄色い絵の具を激しくちりばめているように感じられるのは、自らの苦悩の色に託したゴッホの絵をイメージしてのことであったと思われる。
 また、政治権力によって自分の思い描いた理想世界実現の道を阻まれた賢治は、五月九日の詩に「苹果のえだを兎に食はれました/桜んぼの方は食ひませんで/桃もやっぱり食はれました」<*2>と書くが、一見意味不明のこの詩は、芽を出した若木のように伸びようとしていた彼の理想が阻止されたことをいうものである。「苹果」はトルストイ的な理想を意味し、「桃」は「イーハトーヴ」という言葉に込めた「理想郷」「桃源郷」を意味するものである。
 中国のユートピア物語のひとつ、晋の陶淵明(三六五~四二七)が書いた『桃花源記』は、政治権力が引き起こす戦乱を避けて、ひっそりと暮らしている人々が創り上げている平和で豊かな世界を描いたものである。そこには金殿玉楼も山海の珍味もなく、人々の服装も生活もすべてが日常のものであるが、ただ永遠の平和がある(「中国のユートピア桃源郷」一海知義)。「イーハトーヴ」という言葉に、理想世界を託した賢治の願いは、何よりもそうした世界の実現をめざすものであった。
 ついては、機会があれば、たしかに可能性としてはあったかもしれないが、なぜこのように断定できたのかというその典拠や根拠を是非ご教示願いたいものだ。

<*1:註> 
一〇六六  〔今日こそわたくしは〕
                       五、十二、
   今日こそわたくしは
   どんなにしてあの光る青いあぶどもが風のなかから迷って
   わたくしのガラスの室の中にはいって
   わたくしの留守中室の中をはねあるくか
   すっかり見届けたつもりである
<*2:註>
一〇六〇  〔苹果のえだを兎に食はれました〕
                       五、九、
   苹果のえだを兎に食はれました
   桜んぼの方は食ひませんで
   桃もやっぱり食はれました
     そらそら
     その食はれた苹果の樹の幽霊が
     その谷にたっていっぱい花をつけてゐるでないか
            〈共に『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)〉
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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
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               電話 0198-24-9813

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