みちのくの山野草

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なぜこの時期に『MEMO FLORA手帳』か

2015-08-10 08:30:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 この度、土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」〈『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収〉を知った。同論文は賢治の『MEMO FLORA手帳』と原著(特にFelton著『BRITISHU FLORAL DECORATION』)との対応関係を解析したものだという。
 さてまずこの手帳だが、それは何時ごろ使われたか。同手帳の104pに

すなわち、
 16 図、浮、[築、→P]
 17 築
 18 新、
 19 新、
 20 市、
 21 図、浮、本、明、
 22 ―甲府
 23 ―長野
 24 ―新潟
 25 ―山形
               <『校本 宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)より>
というメモがあることなどから、土岐氏は同論文中で
    使用時期は昭和三年六月八日~二十二日までの間。
と判断を下している。つまり、「伊豆大島行」を含む、「逃避行」とも見られる昭和3年の滞京中に使われたと判断していることになる。言われてみればたしかにそうであろう。

 さてその手帳の中身、使用状況と内容だが、同論文によれば、
A(手帳本体)
 1~12p :植物の学名列挙と一部説明
 51p  :植物の学名と和名列挙
 55~62p:植物の学名・和名列挙と一部説明
 82~88p:『BRITISHU FLORAL DECORATION』よりの抜粋筆写他
 90~91p:『BRITISHU FLORAL DECORATION』よりの抜粋筆写
 101~102p:著者名、洋書名、旧帝国図書館の請求番号
 104p  :日記風簡略メモ
B(挟み込み手帳断片)
 1~4p :植物の学名列挙と一部説明
C(挟み込み手帳断片)
 1~2p ::『BRITISHU FLORAL DECORATION』よりの抜粋スケッチと植物の学名
となっており、この手帳の総ページ数は110頁だが、使用している頁の合計は39pであるともいう。

 また土岐氏は、同論文では特に、
    『BRITISHU FLORAL DECORATION』よりの原文抜粋筆写及び写真のスケッチ
について原点との照応を試みたと述べていて、同論文の「第三章『MEMO FLORA手帳』と『BRITISHU FLORAL DECORATION』との照応」において、それを詳述している。具体的には、次のようなそれぞれの照応について原典と比較検討している。
  手帳          原著
  A82pスケッチ  ⇔ 5p白黒写真
   83p       ⇔ 17p
   85pスケッチ  ⇔ 20p白黒写真
   86・87pスケッチ ⇔ 33pカラー写真
   88pスケッチ  ⇔ 37p白黒写真
   90・91p     ⇔ 183p
  C 1p       ⇔ 13p白黒写真
  C 2p       ⇔ 16pカラー写真
その原典と写真のスケッチを同論文において見比べてみると、なかなか賢治のスケッチが上手くて感心する。また一方で、昨今はコピー機があるからこのようなことをせずともあっという間に原典のコピーができるからありがたいことだと思いつつも、このようなスケッチ等にかなりの手間と時間を要したであろうということもまた想像に難くない。

 そこで湧いてくるのが次の疑問である。なぜこの時期に賢治はこのような『MEMO FLORA手帳』をかなりの手間と時間をかけて作ったのだろうかと。言い換えれば、この時の上京の目的は、『新校本年譜』によれば、昭和3年6月の上京は主に次の三つ「水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的」を持ったものであったということだが、このうちのどれにもこのことは当てはまらないような気がするし、それより何よりこの時期農繁期で忙しい貧しい農民たちのことを考えれば、差し迫ったことではなかろうと思われるからであり、優先順位が違うのではなかろうかという疑問が私には湧くのである。
 まあ、強いていえば、「伊豆大島行き」に関わって、
 (伊藤七雄の)胸の病はドイツ留学中にえたものであったが、その病気の療養に伊豆大島に渡った。土地も買い、家も建てたという徹底したもので、ここで病がいくらか軽くなるにしたがって、園芸学校を建設することになり、宮沢賢治の智慧をかりることになったのである。
              <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)191pより>
とか、
 (伊藤七雄は)体がよくなってくると大島に園芸学校を建てようと思いつき、その助言を得るため、羅須地人協会で指導している賢治を訪ねてきた、というわけである。
              <『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、圖書新聞社、昭和41年発行)243pより>
ということだから、伊藤七雄の「園芸学校」設立のための準備として、「伊豆大島行」を終えた後に帝国図書館に行って調べたとも考えられるが、もしそうであったとしたならば、普通は「伊豆大島行」の前にそれをしてから伊豆大島の七雄を訪ねるのではなかろうか。あるいはまた、そうであったとしたならば少なくとも帰花後に七雄に宛てる書簡の中にその調査結果が報告されると思うのだが、次の下書だけしか公になっていないとしても、
  240〔昭和三年七月初め〕伊藤七雄あて 下書
お手紙ありがたく拝見いたしました。
はなはだ遅くなりましたがその節はいろいろと厚いおもてなしをいただきましてまことにありがたうございました。先月の末おきまり通り少し眼を患ひながら帰ってまゐりました。畑も庭もぼうぼう、かくこうはまだやって居り、稲はもうすっかり青い槍葉になってゐました。水沢へは十五日までには一ぺん伺ひます。失礼ながら測候所への序でにお寄りいたしまして、ご安心になるところ、ならぬところ、正直に申しあげて参ります。
花のたねはみんなありふれたものばかりですが、そのうちすこし大事のところをお送りいたしますからあれで充分お手習ひをねがひます。次にはかの軟弱不健全なる緑廊は雨で潰れるかはじけるかいたしませんか。  こちらも一昨日までは雨でした。昨日今日はじつに河谷いっぱいの和風、県会は南の方の透明な高気圧へ感謝状を出します。
              <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)より>
となっていて、残念ながらその報告は明記されていない。
 一方では、『新校本年譜』によれば賢治は後(昭和5年4月以降)しばし毎日のようにいろいろな花についてもメモを残しているようだから、賢治はこのときの上京を境に、あるいは切っ掛けとして新しい企て、「園芸事業」に乗り出すことを思い付いたという可能性があるのではなかろうか。言い換えれば、昭和3年の6月頃になると賢治はもはや、下根子桜にこれからも居続けて今までのような活動をする困難さを覚り、新しい道に進むことを模索し始めたということはなかろうか。

 それゆえ、土岐氏が同論文の最後の方で、
 このように見てくると、「MEMO FLORA手帳」は、帰花後の園芸活動に役立てるためにわざわざ用意した一冊の手帳に、かねてより考えていた園芸植物についての新しい情報を書き込み、さらに、図書館で発見した夢あふれる花の装飾についての新情報を書き加えた実用のための手帳であったと考えてよいのではないだろうか。
              〈『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)97pより〉
と判断していることを知り、それは肯えるものであった。私にとっては教わることが多々あった論文だった。

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