宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

昭和3年農繁期6月の滞京

2017年01月11日 | 常識でこそ見えてくる








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*****************************なお、以下はテキスト形式版である。****************************
  昭和3年農繁期6月の滞京
 ここで、昭和3年6月の賢治の営為等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡235。
六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡236。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡237。大島へ出発? 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る?
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。 
六月一六日(土) 書簡238。メモ「図書館、浮展、築地」図、浮、P」。  
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>。
 <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
となる。
また、それぞれのメモについては翻訳すれば次のように、
 6/15(金)帝国図書館、府立美術館浮世絵展、新橋演舞場
 6/16(土)帝国図書館、府立美術館浮世絵展、築地小劇場
 6/17(日)帝国図書館、築地小劇場
 6/18(月)帝国図書館、新橋演舞場
 6/19(火)農商務省、新橋演舞場
 6/20(水)農商務省、市村座
  6/21(木)帝国図書館、浮世絵展、本郷座、明治座
となりそうだ。
 さて、この昭和3年6月の上京の主たる「目的」は、伊藤七雄の大島農芸学校設立への助言あるいは伊藤ちゑとの見合いのためなどと巷間言われているようだが、もしそうであったとするならば私にはある疑問が湧いてくる。
 それはまず第一に、この時期、地元花巻では「猫の手も借りたい」といわれる田植え等の農繁期だから、農聖とも言われている賢治であるならばそれが気掛かりなので「大島行」を終えたならば即帰花したと思いきやそうはせずに、浮世絵鑑賞に、そして連日のように観劇に出かけているからである。
 ちなみに、賢治が後程澤里武治に宛てた書簡(243)の中で「…六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず…」と書いているということだから、その様な観劇をしたということをこれは裏付けている。それにしても、なぜ賢治は「目的」をなし終えたならば直ぐ農繁期の花巻に戻らなかったのだろうか。
 それからもう一つ、「大島行」を終えた後に、なぜ「MEMO FLORA手帳」に手間暇かけてのスケッチ等をしていたのだろうか。土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」〈『弘前・宮沢賢治研究会誌醍号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収〉によれば、賢治は帝国図書館に通い、総ページ数110頁の同手帳のうちの39頁分に、『BRITISHU FLORAL DECORATION』から原文抜粋筆写及び写真のスケッチをしていたという。賢治はなぜ「目的」をなし終えたというのに、火急のこととは思えない「MEMO FLORA手帳」へのスケッチ等をしていたのだろうか。
 これらの疑問の答を探していると、佐藤竜一氏のこの時の賢治の上京は「逃避行」であったという主張も宜なるかなと思えてくる。同氏は『宮澤賢治の東京』の中の一節「東京への逃避行」で、
 東京についてすぐ書かれた(六月一〇日付)「高架線」という詩には、世相が表現されている。
 「労農党は解散される」とあり、次のフレーズが続く。
  一千九百二十八年では
  みんながこんな不況のなかにありながら
  大へん元気にみえるのは
  これはあるいはごく古くから戒められた
  東洋風の倫理から
  解き放たれたためでないかと思はれまする
  ところがどうも
  その結末がひどいのです
 国家主義が台頭してきていた。その動きは当然、羅須地人協会の活動に影を落とした。このときの東京行きは、現実からの逃避行であったに違いない。       
<『宮澤賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)>
というように、「このときの東京行きは、現実からの逃避行であったに違いない」と主張している。
 そういえば、賢治は「MEMO FLORA手帳」に、
 16 図、浮、[築、→P]
 17 築
 18 新、
 19 新、
 20 市、
 21 図、浮、本、明、
 22 ―甲府
 23 ―長野
 24 ―新潟
 25 ―山形
   <『校本 宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)>
とメモしているということだから、この上京の際に「甲府、長野、新潟、山形」にも立ち寄ろうと当初計画していたしていたことがほぼ間違いなかろう。したがって、賢治はもっと長期間に亘る「逃避行」を計画していたということも考えられる。
 ところが、この時期は農家にとってまさに農繁期なのだから、農民のために献身したといわれている賢治であれば常識的には何もこの時期を選んで上京せずともよかろうにと私は訝ってしまう。しかも、わざわざこの時期に伊豆大島くんだりまで出かけて行かなくともよかろうに、とも。ところが、実際には賢治はそれをしていたのだから、伊藤七雄とこの時期に是非とも会わねばならなかったからだったという可能性のあることが逆に示唆される。
 したがって、もしこのときの上京が「逃避行」というのであれば、それは「現実からの逃避行」というのではなくて、実はもっと差し迫った「逃避行」であり、それは、この年10月に岩手で行われる「陸軍大演習」を前にして繰り広げられたという凄まじい「アカ狩り」に対処するためのもので、官憲の追求から逃れるためであったとか、はたまた、労農党の活動家でもあった伊藤七雄と賢治との関係を示す客観的な資料等を処分するためであったという可能性すらも否定できない(だからこそ逆に、周りはそれをカムフラージュするために賢治の「伊豆大島行」はちゑとの見合いのためだったと強調したのかもしれないし、それが真相であったことを知っていたがゆえにちゑは賢治と結びつけられることを潔しとしなかったということだってあり得る。そもそも見合いは既に前年の10月に花巻で終えていたと判断できるのだから、再度大島で見合いを行うということは常識的にはあり得ない)。
 それから、『新校本年譜』によれば、賢治は後に(昭和5年4月以降)しばし毎日のようにいろいろな花についてもメモを残しているようだから、賢治はこのときの上京を境に、あるいは切っ掛けとして新しい企て、「園芸事業」に乗り出すことを思い付いたという可能性があるのではなかろうか。つまり、昭和3年の6月頃になると賢治はもはや、下根子桜で従前のような活動をする困難さを覚り、新しい道に進むことを模索し始めたということはなかろうか。それは、土岐氏は同論文の最後の方で、
 このように見てくると、「MEMO FLORA手帳」は、帰花後の園芸活動に役立てるためにわざわざ用意した一冊の手帳に、かねてより考えていた園芸植物についての新しい情報を書き込み、さらに、図書館で発見した夢あふれる花の装飾についての新情報を書き加えた実用のための手帳であったと考えてよいのではないだろうか。
 〈『弘前・宮沢賢治研究会誌醍号』(宮城一男編集、
弘前・宮沢賢治研究会)、97p〉
という見方を述べているが、この見方はその「模索し始めた」ことを裏付けてくれていると私は思えてしまうからでもある。
 言い換えれば、この頃の賢治はもはや〝地人〟からはほど遠い状態になってしまっていたとも言えそうな気がしてくる。それは、帰花後の賢治は伊藤七雄あて書簡(240)の下書(一)の中で
 こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。
        <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
と書いてあったということを知ればなおさらにそんな気がしてしまう。私の抱いていた賢治のイメージからすれば、帰花したならばそれまでの農繁期の「約三週間ほど(〈註一〉)」の故郷の留守を近隣の農民たちに侘び、それこそ彼らのために「徹宵東奔西走」するとばかりに思っていたのだがそんなことではなくて、「しばらくぼんやりして居りました」ということのようだったからである。したがって、どうやら、
 賢治は下根子桜の生活に心も体もそろそろ「折れ」始めていたのかもしれない。
ということを、昭和3年6月の農繁期でもある「約三週間ほど」の滞京が教えてくれる。
 そして一方で、賢治の詩〔澱った光の澱の底〕につて、『新校本年譜』等は「六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕> 」と推定しているから、帰花直後に賢治は「南は二子の沖積地から/飯豊 太田 湯口 宮の目/湯本と好地 八幡 矢沢とまはって」大車輪で稲作指導にかけずり回っていたと受け止めている読者等も多いようだが、こんなことがほぼできないことは実際に移動距離を調べてみれば容易にわかる。
 そして賢治自身も、「南は二子の沖積地から/飯豊 太田 湯口 宮の目/湯本と好地 八幡 矢沢とまはった」とは詠んでいない。あくまでも「南は二子の沖積地から/飯豊 太田 湯口 宮の目/湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう」であり「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」と予定をあるいは「あした」の意気込みを単に詠んでいるに過ぎない。
 もともと詩には非可逆性があるのだから単純に還元できないが、この〔澱った光の澱の底〕については還元以前の問題である。しかも、「六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>」という推定そのものもかなり危うい。私の検証によれば、当時の『阿部晁 家政日誌』等に従って7月5日頃と推定する方が遥かに妥当である。

<註一> 昭和3年7月3日付菊池信一宛書簡(239)の中に、
 約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。
     <『校本 宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
***************************** 以上 ****************************
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