《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
昭和3年6月の上京昭和3年の6月賢治は上京した。そこでまずは、昭和3年6月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡235。
六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡236。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡237。大島へ出発? 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る?
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。
六月一六日(土) 書簡238。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡236。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡237。大島へ出発? 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る?
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。
六月一六日(土) 書簡238。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕<〔澱った光の澱の底〕>。
のようになっていて、それぞれのメモについては翻訳(?)もすれば次のように、
6/15(金) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、新橋演舞場
6/16(土) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、築地小劇場
6/17(日) 帝国図書館、築地小劇場
6/18(月) 帝国図書館、新橋演舞場
8/19(火) 農商務省、新橋演舞場
8/20(水) 農商務省、市村座
6/21(木) 帝国図書館、浮世絵展、本郷座、明治座
となるようだ。6/16(土) 帝国図書館、府立美術館浮世絵展、築地小劇場
6/17(日) 帝国図書館、築地小劇場
6/18(月) 帝国図書館、新橋演舞場
8/19(火) 農商務省、新橋演舞場
8/20(水) 農商務省、市村座
6/21(木) 帝国図書館、浮世絵展、本郷座、明治座
一方、詩については下表のように、
【賢治下根子桜時代の詩創作数推移】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/a2/aa75906d7f38221e7f4dbc1a3a8cb8e0.png)
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
となり、この月に詠んだ詩としては
6/10 <高架線>
6/13 <三原 第一部>
6/14 <三原 第二部>
6/15 <三原 第三部>
〃 <浮世絵展覧会印象>
6/19 <神田の夜>
滞京中<自働車群夜となる>
〃 <公衆食堂>
〃 <孔雀>
〃 <恋敵ジロフォンを撃つ>
〃 <丸善階上喫煙室小景>
〃 <光の渣>
6月下旬<〔澱った光の澱の底〕>
があるという。6/13 <三原 第一部>
6/14 <三原 第二部>
6/15 <三原 第三部>
〃 <浮世絵展覧会印象>
6/19 <神田の夜>
滞京中<自働車群夜となる>
〃 <公衆食堂>
〃 <孔雀>
〃 <恋敵ジロフォンを撃つ>
〃 <丸善階上喫煙室小景>
〃 <光の渣>
6月下旬<〔澱った光の澱の底〕>
すると不安になるのは、もしこのような上京であったとするならば、この頃古里では当時であれば「猫の手も借りたい」といわれていた田植え時期であるが、それに対してこの滞京時の賢治の「浮世絵鑑賞」そして何より連日のように観劇に出かけている賢治は私が抱いていた賢治像とはかけ離れていることだ。しかも、賢治は後程澤里武治に宛てた手紙の中で
…六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず…
と語っているということだから、そのような観劇をしたということをこれは裏付けているとも言えそうだから、おそらくほぼ事実だろう。
賢治は稲作にどれだけ関わったのか
さて、菅谷規矩雄氏は、
宮沢がつくったのは、白菜やカブやトマトといった野菜がほとんどで、主食たりうるものといったらジャガイモくらい――いや、なにを主食とするかのもんだいと、作物の選択とがついに結び合わないのである。トウモロコシや大豆はつくったらしいが、麦のソバも播いた様子がない。
なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていないことである。それがいかなる理由にもせよ、宮沢の〈自耕〉に〈稲作〉が欠落しているかぎり、「本統の百姓になる」ことも自給生活も、ともにはじめから破綻が必至であったろう。
<『宮沢賢治序説』(菅谷規矩雄著、大和書房)98p~>なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていないことである。それがいかなる理由にもせよ、宮沢の〈自耕〉に〈稲作〉が欠落しているかぎり、「本統の百姓になる」ことも自給生活も、ともにはじめから破綻が必至であったろう。
と論じているが、私もこの「二年数カ月に及ぶ下根子桜の農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていない」という指摘はその通りだと思うし、この厳然たる事実に私たちは目を背けてはいけないのだとこの頃は思っている。
しかもこの頃さらに思うことは、賢治が「〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていない」どころか、賢治はどれだけのことを貧しい農民たちのために為したのだろうかということだ。「羅須地人協会時代」の賢治は、それこそ彼らのために雨風の中を徹宵東奔西走し、ついに病に倒れたとばかりにかつては思っていた私だが、検証すればするほどそれは私の思い込みだったということを思い知らされてきたからだ。
おそらく昭和2年の農繁期の場合はそうであったかもしれないがそのことはしばし保留しておいて、それ以外の期間を考えてみる。まず大正15年のことを振り返れば、下根子桜に移り住んでからの暫くの間は少なくとも貧しい農民たちのために為した賢治の稲作指導等は具体的には見えてこない。そしてこの年で絶対避けて通れないのが稗貫・和賀も含めて、とりわけ紫波郡の未曾有の旱害罹災の惨状だ。ところがこの惨憺たる状況に追い込まれていた近隣の貧しい農民たちのために賢治は救援活動をしなかったどころか、このような古里を離れて大正15年の12月は上京、明けて1月以降は羅須地人協会での講義等はしたと思うが、ほぼこの惨状に賢治は無関心でいたことに残念ながら私は気付いてしまった。またその頃はまだ肥料設計はしていなかったはずだ。それでは、昭和2年の稲の収穫後の農閑期はどうだったかというと、11月頃から約三ヶ月間は滞京していたと判断できるから、この期間も肥料設計は物理的にできない。さらに、この昭和3年の6月の上京である。昭和初期の頃の田植えは6月中旬から、つまり入梅の頃から始まったと云われているから、まさに賢治は「猫の手も借りたい」といわれていた田植え時の農繁期に古里にを離れて2週間以上も居なかったことになる。しかもその時賢治は何をしていたかというと、「伊豆大島行」はさておき、それが終わってからも直ぐに帰花することなく、前述したように「浮世絵鑑賞」、連日のように観劇に出かけていたわけである。もはやこうなってしまうと、賢治はそれ程古里の貧しい農民たちの稲作を心配したわけではないという結論に至ってしまう。それは、「伊豆大島行」を終えてからも賢治はすぐに帰花せずに帝国図書館に出掛けて行き、当面差し迫ったこととは思えぬ『BRITISHU FLORAL DECORATION』の原文抜粋筆写及び写真のスケッチを手間暇かけて行い、『MEMO FLORA手帳』を作った<*1>ということからも裏付けられる。
したがって、「昭和2年の農繁期」についてはまだ検証していないからそこは何とも言えないのかもしれないが、この期間を他の期間から推考した上で「羅須地人協会時代」全体を評価すれば、羅須地人協会の隣人で会員であった伊藤忠一が、
協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんのあの「構想」だけは全くたいしたもんだと思う。
<『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p >と言い残していることは、やはり本当のことであり、実は、「昭和2年の農繁期」も含めて賢治が「協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかった」ということは事実だったということを私はそろそろ甘受せねばならないようだ。「羅須地人協会時代」の賢治は巷間云われているほどには稲作に興味があったわけでもなく、また少なくとも貧しい農民たちのために献身していたわけでもなく、賢治は己の欲することを思いのままに実践していたのではなかろうか。
そしてこのことは、それこそ賢治がこの伊藤に宛てた書簡(258)の中で、
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡 本文篇』(筑摩書房)>と「羅須地人協会時代」のことを自省し、伊藤に詫びていることとまさに符合しているとも言える。たしかに、「羅須地人協会時代」に賢治が為したことは貧しい農民たちのためにとは言えないことが多いし、あるいは冷静に考えればあまり褒められたことでもないことも少なからずあった。言い方を換えれば、私たちはこの賢治の「自省」を素直に受け止め、この言葉の重みを見直す必要があるのではなかろうか。
どうやら私はここに至って、かって思っていたほどには賢治は稲作に親身に関わっていなかったのかもしれないということも視野に入れておかなければならないということを、そろそろ真剣に考えねばならないのかもしれない。
垣間見られる賢治の不羈奔放性
とまれ、約半年前の「三ヶ月間」の滞京に引きつづき、この昭和3年6月の農繁期にまた賢治は上京、しかも農繁期の古里のことはあまり気にしていなかったようだということからは、この頃の賢治はかつて私が抱いていた賢治像とはかなり異なる。がもちろん、それは何も賢治が悪いわけでも何でもなく、「創られた賢治像」を私が勝手に鵜呑みして信じていたというだけのことだ。そしてまた、実は、この時の上京は「逃避行」という見方もできるということだし、それも一つの有力な見方だと私も感じている。だから、この時の農繁期の2週間余の上京も、賢治の性向が顕著に現れていると言えそうだし、そこからは何ものにも縛られずに思いのままに自由に振る舞っていることが色濃く窺えるからこの時の賢治は、やはり「不羈奔放」という言葉で表されるものに限りなく近いとやはり私は思ってしまった。
<*1:注>土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」(『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収)より。
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《鈴木 守著作案内》
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『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) 『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』
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