みちのくの山野草

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賢治関連七不思議(おかしいと思わないのだろうか、#12)

2017-08-21 10:00:00 | 賢治に関する不思議
《驥北の野》(平成29年7月17日撮影)
 伊藤ちゑである蓋然性の方がかなり高い
 ところで当の賢治は昭和6年頃自身の結婚についてどのように考えていたのだろうか。森荘已池によれば、昭和6年7月のこととして、
 どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三円(ママ)の本を出す。和とぢの本だ。
「あなたは清濁あわせのむ人だからお目にかけましよう。」
 と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だつた。春信に似て居るけれど、春信ではないと思う――というと、目が高いとほめられた。
 …(筆者略)…そして次のようにいつた。
「ハバロツク・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちつとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になって、伏字にしなければならなくなりますね」
 こんな風にいつてから、またつづけた。
「禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです。」
 自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻轉ではない。天と地がひつくりかえると同じことぢやないか。
「何か大きないいことがあるという。功利的な考へからやつたのですが、まるつきりムダでした。」
 そういつてから、しばらくして又いつた。
「昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといつたそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな僞善に過ぎませんよ。」
 私はそのはげしい言い方に呆れる。
「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしようね。」
と私は答えた。
「いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう。
           <『宮沢賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)107p~より>
と証言しているから、どうやらこの頃の賢治はかつてとはすっかり変節してしまったようだ。
 それから伊藤ちゑに関しては、前掲書によれば、昭和6年7月7日に森荘已池を前にして賢治は
    伊藤さんと結婚するかも知れません
とほのめかし<*1>、ちゑのことを
    ずつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐるといはれると、心を打たれますよ。
と認識し、しかも、
    禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです
と悔いていて、ちゑが
   自分のところにくるなら、心中の覺悟で來なければ
とも言っていたということだから、この頃の賢治は独身主義を棄て、ちゑと結婚しよう思っていた可能性は低くない。よって、賢治は独身主義だったと巷間いわれているようだがこの当時の賢治はどうもそうとは言い切れなさそうだ。

 それは佐藤隆房も昭和6年のこととして『宮澤賢治』に、
 賢治さんは、突然今まで話したこともないやうなことを申します。
「實は結婚問題がまた起きましてね、相手といふのは、僕が病氣になる前、大島に行つた時、その嶋で肺を病んでゐる兄を看病してゐた、今年二七、八になる人なんですよ。」
 釣り込まれて三木君はきゝました。
「どういふ生活をして來た人なんですか。」
「なんでも女學校を出てから幼稚園の保姆か何かやつてゐたといふことです。遺産が一萬圓とか何千圓とかあるといつてゐますが、僕もいくら落ぶれても、金持ちは少し迷惑ですね。」
「いくら落ぶれてもは一寸をかしいですが、貴方の金持嫌ひはよく判つてゐます。やうやくこれまで落ちぶれたんだから、といふ方が當るんぢやないですか。」
「ですが、ずうつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐるといはれると、心を打たれますよ。」
「なかなかの貞女ですね。」
「俺の所へくるのなら心中の覺悟で來なければね。俺といふ身體がいつ亡びるか判らないし、その女(ひと)にしてからが、いつ病氣が出るか知れたものではないですよ。ハヽヽ。」
            <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)213p~より>
と記述していることからも裏付けられる(もちろんこの「三木」とは森荘已池のことであり、ちなみに昭和26年の同改訂版では「森」になっている)。

 ではその一方の伊藤ちゑは当時どのように考えていたのだろうか。まずは、昭和3年6月の大島訪問以前の秋に花巻で賢治とちゑの「見合い」があったとほぼ判断できるわけだが、実はこのことについて後にちゑは、『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』<*2>というような直截な表現を用いて深沢紅子に話していたという。このちゑのきつい一言をたまたま知ることができた私は当初、ちゑは「新しい女」だったと仄聞していただけに流石大胆な女性だなと面喰らったものだが、それは、前述したような当時のちゑのストイックで献身的な生き方をそれまでの私が少しも知らなかったことによる誤解だった。
 次に、冒頭の引用文に従えば、当時の賢治はかつてのような賢治ではなくなってしまったことを彼自身が森荘已池に対して言っていたということになるし、佐藤竜一氏も主張するように、昭和3年6月の賢治の上京は「逃避行」であったと見ることができるから、もはやかつてのような輝きは賢治から失われていたということが十分に考えらる。
 となると、そのような状態にあった賢治と大島で再会したちゑは賢治の「今」を見抜いてしまい、自分の価値観とは相容れない人であると受け止めたという蓋然性が低くない。それは、先に述べたきつい一言からも裏付けられる。
 またそれ故に、昭和16年1月29日付森宛露の書簡中に、「あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました」とちゑは書き記した<*3>と解釈できるし、その後、いくら森が賢治とちゑを結びつけようとしても頑なにそれを拒絶した<*4>のはちゑの矜恃だったのだ、と解釈できる。つまるところ、当時のちゑは賢治との結婚を拒絶していたと言える。

 ところで、私は前回最後に
 露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だからこの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕は露のことをモデルとして詠んでいる。
という判断がおかしいという主張をしたし、そのことについてはある程度納得したもらえたものと確信している。それはそこで述べたように、露のみならず「聖女の様し」た女性としてちゑがいることがわかったからだ。そしてその一方で、賢治周縁の女性でしかもクリスチャンかそれに近い女性は他にいないから、結局、
 賢治が「聖女のさまして近づけるもの」のモデルとして考えられる人は高瀬露か伊藤ちゑの二人であり、この二人しかいない。
ということも殆どの方に肯んじてもらえたはずだ。では、一体この二人の中でどちらが当て嵌まるのかを次に考えてみたいのだが、結論を先に言ってしまえば、
 「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルは限りなくちゑである。………◆
である。なぜならば以下のような理由からだ。

 これまでのことを簡単に振り返って見れば、
 ・賢治は昭和6年の7月頃伊藤ちゑとならば結婚してもいいと思っていたが、そのちゑは賢治と結婚することを拒絶していたという蓋然性がかなり高い。
 ・それに対して高瀬露の方だが、賢治は昭和2年の途中から露を拒絶し始めていたし、しかも昭和3年8月に下根子桜から撤退して実家にて病臥するようになったので露との関係は自然消滅したと一般にいわれている。
から、
 ・露 :「レプラ」と詐病したりしまで賢治の方から拒絶したといわれている露に対して、その約4年後に
 ・ちゑ:賢治が「結婚するかも知れません」と言っていたというちゑに対して、その約2ヶ月半後に
どちらの女性に対して、例の「このようななまなましい憤怒の文字」を連ねた〔聖女のさましてちかづけるもの〕という詩を当て擦って詠むのかというと、それは
     ちゑ ≫ 露
つまり、
     露より遥かにちゑの方の可能性が大だ
となることはほぼ自明だろう。とりわけ、ちゑは賢治との結婚を拒絶していたと判断できるからなおさらにだ。
 いやそうではないと言う人もあるかもしれないが、もしそうだとすれば〔聖女のさましてちかづけるもの〕は露に対して当て擦った詩となるから、賢治は異常に執念深くて女々しい男だということになるし、賢治が大変世話になった露に対していわば「恩を仇で返す」ということになるから、流石にそれはなかろう。

 したがって、この昭和6年10月に詠んだ〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、同年7月頃にちゑとなら結婚してもいいと思っていたという賢治が、ちゑからそれを拒絶され、それは自分の思い込みに過ぎなかったということを思い知らされた賢治の憤怒の詩だったと判断するのが極めて妥当な判断であろう。つまり、「聖女のさまして近づけるもの」とは伊藤ちゑのことである蓋然性の方がかなり高いということであり、それ故に、〝◆〟と言える。換言すれば、
 少なくとも〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルは露ではなかったということがこれでほぼ明らかになったし、もしそれでもそのモデルが露であると主張するのであれば、その前に、まずちゑがそうではなかったということを証明せねばならない。これが外せない論理だ。

 一方で同時に私が声を大にして言っておきたいことは、そのモデルがちゑであったとしても、
 伊藤ちゑという人はスラム街の貧しい子女のために献身するなどのストイックな生き方をした、まさに「聖女」のような高潔な実践家でり、尊敬すべき人物であった。
ということだ。
 それからもう一つ、そのモデルの可能性として露以外の女性が考えられるということや、それがちゑである可能性をどうして賢治研究家の誰一人として探究してこなかったのか、私にはそれがとてもおかしなことであり、不思議だということもだ。それとも私がそう思うのは管見故にだろうか。

<*1:註> 森荘已池によれば、
 「私は結婚するかもしれません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月で、東北碎石工場の技師となり、その製造を直接指導し、出來た炭酸石灰を販賣して歩いていた。さいごの健康な時代であつた。
           <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)104pより>
ということである。
<*2:註> 現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。
 なおこの『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』については、私は二人の人から違うルートで聞いている(そのうちの一人は佐藤紅歌の血縁者で平成26年1月3日に、もう一人は関東の宮澤賢治研究家である(ただしその時期はそれ以前なのだがそれが何時だったかは失念した))。
<*3:註> ちゑが森に宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の次のような一節がある。
 皆樣が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られますあの御方に、御逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の爲に、私如き卑しい者の関りが必要で御座居ませうか。あなた樣のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆樣の陰にかくれて靜かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。
           <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)157pより>
<*4:註> 同じく同年2月17日付森宛露の書簡中に、
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
           <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)164pより>

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