《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
そもそも6月のこの時期といえば農家にとってはまさに田植に関わる農繁期なのだから、何もわざわざこの時期を選んで賢治は上京せずともよかろうにと訝られることもあろうから、この時期に伊豆大島下りまで伊藤七雄を訪ねなくともよかろうにと私も思ったのだが、それを敢えてしていたのだから賢治は伊藤七雄とこの時期に是非とも会わねばならなかったということが逆に示唆される。したがって、もしこのときの上京が「逃避行」というのであれば、それは「現実からの逃避行」というのではなくて、これは大内秀明先生の著書やご教示から学んだことなのだが、実はもっと差し迫った「逃避行」であり、それは官憲の追及からまさに逃れるためのものであり、追及を紛らわすためであり、あるいはもしかすると伊藤七雄と賢治の関係を示す客観的な資料等を処分するためであったという可能性も否定できない(だからこそ逆に、周りはそれをカムフラージュするために賢治の伊豆大島行きはちゑとの見合いのためだったと強調したのかもしれないし、それが真相であったことを知っていたがゆえにちゑは賢治と結びつけられることを潔しとしなかったということだってあり得るのかもしれない)。
ちなみに、次の写真は、各人物の並び方や身なり等から判断して
<『年表作家読本宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)より>
伊藤七雄はあの大物政治家の「人間機関車」浅沼稲次郎との深い交流があったということや、当時の伊藤はその浅沼よりも重きをなしていた日本労農党の主要なメンバーだったに違いないといういことをも如実に語っているような気もしてくる。なお空想を逞しくすれば、浅沼は伊豆諸島の中の三宅島出身だから、伊藤が伊豆大島にて療養し、そこに農芸学校を開設しようとしたのも、浅沼が「地元の利」を活かしたからであったということも考えられる。
それからまた、この上京の際に、甲府、長野、新潟、山形のそれぞれに実際に立ち寄ったかどうかは定かではないが、これらの地名を賢治が「MEMO FLORA」手帳等にメモしているということは少なくとも旅行の際にそこにも立ち寄ろうと当初計画していたしていたことはほぼ間違いなかろう。したがって、賢治はもっと長期間にわたる「逃避行」を計画していたということも考えられる。
もはやこうなってしまうと、この頃の賢治は〝地人〟からはほど遠い状態になってしまっていたとも言えそうな気がしてくる。それは、帰花後の賢治は伊藤七雄あて書簡〔240〕の下書(一)の中で
こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>と書いてあったということを知ればなおさらにそんな気がしてしまう。私の抱いていた賢治のイメージからすれば、帰花したならばそれまでの農繁期の古里の20日間弱の留守を侘びて、それこそ「徹宵東奔西走」するとばかりに思っていたのだがそんなことではなくて、「しばらくぼんやりして居りました」ということになりそうだからである。
もしかすると下根子桜の生活に賢治はそろそろ「折れ」始めていたのかも知れない、心も体も。
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