みちのくの山野草

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創造的だが風変わりな人

2018-01-04 09:00:00 | 賢治に関する不思議
『意識と感覚の脳科学』(日経サイエンス社、2014年10月22日号)
 では、いよいよ S.カーソン(ハーバード大学)の〝「天才と変人」 解き放された知性〟というタイトルの論文についてだ。
 このタイトルの直ぐ下には、
 創造性にあふれた人物は
 たの人たちとくらべてしばしば風変わりに見えることがある
 その理由がわかってきた
という説明がある。そうか、今まではその理由がわかっていなかったのか。それがやっと最近になってその理由がわかってきたということで、そのことについて論じているということか。

 さて、この最初の頁には、同論文の〝「KEY CONCEPT」〟があったのでそれをまず紹介したい。
創造的だが風変わりな人
⑴ 創造性に富む人々は、しばしば奇妙な振る舞いをする。逆もまたしかりだ。
⑵ 創造性と奇抜さのどちらの原因も、遺伝子の変異によって「認知的脱抑制」と呼ばれる状態が強まることと関係しているらしい。
⑶ 非常に知性的な人々は、フィルターにさえぎられずに入って来た大量の情報にも圧倒されることがないため、情報が意識に上がってきた際に、並外れたアイディアや知覚が生まれるのだと考えられる。
             〈『意識と感覚の脳科学』92p〉
ということである。

 さて、最初の⑴についてだが、「創造性に富む人々は、しばしば奇妙な振る舞いをする」という事はしばしば言われてることだから違和感がないが、それに続く「逆もまたしかりだ」に意表を突かれた。それは、逆は成り立つこともあればそうでもないこともあると私は今まで思っていたのだが、そうではなくて、いつでも逆がなり立つとここでは断定していることになるからだ。つまり、次の
    「創造性に富む人々」⇔「しばしば奇妙な振る舞いをする」
同値関係が成り立つと言っていることになる。言い換えれば、
    「しばしば奇妙な振る舞いをする」ことは「創造性に富む人々」であることの必要条件でもある。
と言っていることになる。

 そこでこの⑴に従えば、
    賢治が「しばしば奇妙な振る舞い」をすることは、「創造性に富む」賢治にとって必要条件であった。
ということになる。これなくしては賢治たり得なかったということになってしまう。
 そういえば、賢治が「しばしば奇妙な振る舞い」をしていたことについては前回澤里武治の証言を引例したが、そのようなことについては、やはり教え子の一人、照井謹二郎も次のようなことを鳥山敏子からのインタビューで語っていたことを思い出した。
 十月になって、お天気のいい日曜日だったんですよ。先生から、ちょっと近くの川に行こうじゃないかといわれて、北上川からちょっとわかれたところにあるんですが、そこに案内したわけですよ。
「舟漕げるか?」って先生がいうんで、「私、このへんだったら漕げますよ」といったら、「じゃ、その舟で行こう」と、こういうわけですね。…(投稿者略)…
 まあ、ちょうど静かな水面にねえ、日が照ってるでしょ。そうして先生も、とっても気持ちよかったんでしょう。川の真ん中あたりに行ったときにね、どこにしまってあったんだか、りんごを出して水のなかに入れたんだね。そうしてところがねえ、トポンとリンゴが落ちるでしょう。日が照るでしょう。水のなかに入ったときのリンゴの輝きがね、ちょうどプリズムで見るように、色がわかれる感じでね。それを何回も繰り返すんですよ。上げたり下げたり。上げて――、「はぁっ、きれいだ!」という、その声がね、全部同じ声じゃないんだ、喜び方がね。…(投稿者略)…
 言葉にあらわせないですよ、あの喜ぶ姿というのは。本当に、童心というか、天真爛漫といいますかね。ただただその世界に溶けこんでいるもんだから、こっちのほうで、竿もって私がみているなんてこと、あたりに人なんかいるってこと、全部関係ないんだもん。もう、自然と自分が合致しちゃった姿なんだから。
             〈『賢治の学校』(鳥山敏子著、サンマーク出版)18p~〉
もちろんこの「先生」とは賢治のことであり、賢治のこの行為はたしかに天真爛漫ではあるが、客観的に見ればやはり「奇妙な振る舞い」に写る。どうやら、
    賢治が「風変わりな人」であった。
ことについてはほぼ間違いなさそうだ。
 したがって、
    創造性に富む賢治は、しばしば奇妙な振る舞いをした。
ということは、ほぼ断定してもよいようだ。がしかし、
    賢治はしばしば奇妙な振る舞いをしたから創造性に富んでいた。
ということについては、どうもしっくりこない。
 とはいえ、
    賢治はしばしば奇妙な振る舞いをするような人だったから創造性に富んだ素晴らしい作品を創れた。
ということは言えそうだ。

 どうやら、先の同値関係には私はまだまだ納得できない点もあるが、少なくともかなり同値に近い関係にあるということは言えるのかもしれない。

 それから⑵及び⑶については、推測や可能性があるとしているわけだが、これはS.カーソンがそう推測したりしているのだろうか。それとも『意識と感覚の脳科学』の編集者がそうしているのか今のところはっきりしないので、それは今後の課題とし、読み進んでいけばそのいずれである明らかになるだろうということで、今は保留しておこう。    

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