みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

羅須地人協会時代の12月賢治ほぼ不在

2021-12-26 14:00:00 | 賢治に関する不思議
 暫くぶりに下根子桜を訪れてみた。おそらく、龍の玉が沢山輝いているだろうと楽しみにしてである。
《1 》(2021年12月25日撮影)

《2 》(2021年12月25日撮影)

《3 》(2021年12月25日撮影)

《4 》(2021年12月25日撮影)

《5 》(2021年12月25日撮影)


 ところで、佐藤司氏の『今日の賢治先生』(永代印刷出版部)を見ていると気づくことの一つが、羅須地人協会時代の12月の記録、つまり大正15年、昭和2年の12月の記載があまりないということだ。ちなみに、当該の記載は以下の通りであり、
大正15年12月1日
大正15年12月2日
大正15年12月3日
大正15年12月12日
大正15年12月18日
大正15年12月20日
大正15年12月23日
についてのみである。
 しかもこのうちで、羅須地人協会に賢治が居た日のものはせいぜい12月の1日~3日のみで、他の日は、滞京中のものである。
 一方、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』によって調べていると、羅須地人協会時代の動静は下掲のとおり、

となり、羅須地人協会時代の賢治は12月に下根子桜で暮らしたことはやはり実質的にほぼゼロである。羅須地人協会時代の12月の下根子桜に賢治はほぼ不在である。

 そこで思うのは、これだけの龍の玉が今の時代でもこの時期、下根子桜には瑠璃色に輝いている、
《6 龍の玉》(2021年12月25日撮影)

《7 》(2021年12月25日撮影)

《8 》(2021年12月25日撮影)

《9 》(2021年12月25日撮影)

《10 》(2021年12月25日撮影)

《11 》(2021年12月25日撮影)

《12 》(2021年12月25日撮影)

くらいだから、それはかつてもそうであったであろうが、賢治はラピスラズリのように輝くこの景を見たことはないのではなかろうかということだ。そして、もしそうであったとしたならばそれは至極残念なことだ。あれだけ見事な、おきなぐさについての美しい童話を賢治は書いていたのだから、この龍の玉を扱った素晴らしい童話も書いたであろうに。しかし、私はそのような賢治の童話も詩も何一つ知らない。

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【新刊『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))の表紙】

【キャッチコピー】
 
【目次】

【序章 門外漢で非専門家ですが】


【終章】


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