常識について思うこと

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死の淵から得られるもの

2008年11月09日 | 自分

死んでしまってはいけませんが、強く生きることの意味を知ったり、その重みを感じたりするために、「死」と向かい合うことは、けっして悪いことではないと思います。私は、出生のときに危険な体験をしているせいか、物心ついた頃から、死ぬことばかり考えていました(「無意識の記憶の力」参照)。ただし、その危険な体験というのは、あくまでも無意識レベルのもので、表層意識で感じることではなく、またしたがって、その体験を通じて感じたことを論理立てて説明することは難しいものです。

ところが、ちょうど1年前の私は、明確に表層意識のレベルで「死」と向かい合っていました。

自殺は悪いことです。ただそれでも、「もうこの世に存在したくない」と思うことがあって、当たり前だと思います。私の場合、この世界があまりにも酷いと感じてしまい、「そんな世界で自分の貴重な生命を費やすなど、バカバカし過ぎる」などという思いから、「こんな世界からは、さっさと失礼させていただく」という意味で、「死」と向き合っていました。明らかに矛盾です。貴重であるはずの自分の生命を、自ら返上しようなど、とても道理が通っているとは思えません。しかし、当時の私にとって、そう思えても仕方がないことが、多々あったことも事実ですし、今振り返ってみても、そうせざるを得なかったと思っています。

ところで私は、この経験を通じて、実に多くのことに気付かされました。そのうちのひとつは、人間が「死ぬ!」などと叫んだり、実際に死んでやるなどと思えているうちは、まだ生きるのに必要なエネルギーがきちんと残っているということです。

以前、製薬会社に勤めていた友人から、「抗うつ剤は危ない」という話を聞いたことがあります。もちろん、処方の仕方にもよるのでしょうが、彼が言わんとしたことは、本当にどん底にいる人に対して、抗うつ剤を投与してしまうと、自殺できるだけの力が回復してしまい、実際に死んでしまったりすることがあるというのです。

この話を聞いた当時、私は「そんなものだろうか」と聞き流していましたが、これは、私が身を持って体験したことであり、今では十分にあり得る話だと思います。

「この世から失礼させていただく」と本気で思ってはいても、それは最終的な結果が確定したときでないといけません。結果が確定したときというのは、可能性が途絶え、完全に絶望したときであって、その時点ではじめて「この世から失礼させていただく」ことができるということです。

1年前の今日、ある非常に大切なことについて、いよいよ可能性がなくなってきたと思っていた私は、昼頃からだんだん体に力が入らない状態になっていました。歩こうと思ってもままならず、かろうじて交互に足を前に運ぶことの連続で、少しずつ前に進めるといった状態です。何となく予感はしていましたが、昼過ぎになって、ある電話を受けたことで、いよいよ最終的な結果が確定しました。その瞬間、私はもうどうすることもできぬほど、絶望のなかにありました。

「この世から失礼させていただく」

そう思っていたはずでした。最終的な結果が確定したのだから、当初、考えていたとおり、プランを実行に移せばいいだけのはずです。しかしその時点で、私にはもう身動きするエネルギーが、一切残されていませんでした。ただ、ベンチにうなだれたまま、何もできないでいる自分がいるのです。もはや「自殺」どころではありません。立ち上がることもできぬほど、まったく力が残されていないのです。

-うん?なんで生きてるんだ?-
-死ぬべきなのに、死ぬことすらできないのか?-

ただひたすら、こんな言葉が、頭のなかを巡りました。しかし、こんな状態が長く続くこともありませんでした。きちんとは分かりませんが、時間にして1分もなかったように思います。

-うん?死ねないなら生きるしかないぞ-
-あれ?生きるなら、まずこうすればいいのでは?-
-しまった!こうしなければいけなかったんだっ!-

結局、甘えていた自分に気付いたのです。そして、その瞬間から自分がやるべきことが、はっきりと見えました。それ以降、今日に至るまでの1年間、そのときのイメージ通りに生きてきているように思います。そのイメージとは今日、そして明日を生きる私にとってのビジョンであり、表層意識のレベルで「死」と向き合い続けた結果、得られたものだと考えます。

これこそが、冒頭に述べたように、「死」と向き合うことで、強い「生」を得る、あるいは「生」の重みを知るということです。「生」を知りたくば「死」を知り、「死」を知りたくば「生」を知れ、といったところでしょうか。なかなか、面白いものだと思います。

《おまけ》
最近の殺人事件で、世の中に絶望したり、それに関連して自分が死にたかったからというような動機を聞くことがあります。私は、本記事で書いた自らの体験から、そうした人々の心境もわかるような気がしています。もちろん、他人を殺めるなど、絶対に許されることではありません。ただ、今の世の中には、そうした犯罪には手を染めていなくても、非常に多くの人々がそういう心境や境遇にあるのではないかと考えます。そういう方々に、伝えるべきことがあるとするならば、以下のとおりです。

「他人を殺めようとか、自分を殺してしまおうとか考えているうちは、まだまだ生きる力があると思ってください。絶望しているのなら、とことん絶望して、本当に死ぬしかないと思えるところまで行った方がいいかもしれません。本当に死ぬしかないときというのは、生きる力がまったく残されていない状態です。そのときは他人にしろ、自分にしろ、殺すことなんてできないはずです。そうしたら、今まで見えていなかった、新しい生きる道が見えてくるかもしれません。手を差し伸べてくれる人もいるかもしれません。自分に負けず、生きる希望と努力を忘れずに、本当のギリギリまで行ってみることも大切だと思います。」

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