常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

多世界解釈の不思議

2009年10月08日 | 科学

今日、元々は打合せの予定がありました。しかし私としては、昨日からの台風で、きっと大変なことになるだろうと予想していたので、できれば中止したいと思っており、昨日昼の段階で「台風が大変だし、中止の連絡を入れようかな」等と思ったりもしました。しかし、その時点では、中止必至と言えるほど決定的な状況ではなかったので、ひとまずは打合せを実施するつもりでいました。

ところが昨晩、先方から「ただ今、関西出張中であり、明朝戻る予定のため、台風の影響で打合せに支障が出るかもしれない」という趣旨の連絡があり、これをきっかけに、今日の打合せは中止となり、本日、私は外出をしなくてもよくなりました。

ここでふと思うのです。

-昨日昼の段階で、私が連絡を入れたらどうなっただろうか?-

常識的に考えれば、先方も「関西出張」で都合が悪いため、「ちょうど良かった、中止にしましょう」ということになるのだろうと思われます。しかし私には、そうではないかもしれないという思いがあるのです。

つまり、先方が「関西出張中である」というのは、昨晩、先方からの連絡があった時点で、はじめて確定したのではないかということです。

これはまさに、「シュレディンガーの猫」のような話です。この話の簡単な説明は、他の記事でも書いています(「揺らめく現実世界」参照)が、要は、密閉された箱の中の猫が生きているか、死んでいるかは、箱を開けて確認をした時点で、はじめて確定するということです。そしてまた、その確認をするまで、猫は「生きている状態」と「死んでいる状態」の中で、並行して存在しているというのです。この相反する状態が並行して存在するという事象を、きれいに説明するには、いわゆるパラレルワールドのようなものを認める多世界解釈が必要になるわけですが、これがどうも頭に引っかかるのです。

つまり、「シュレディンガーの猫」の話を「先方の状態」に置き換えて考えると、「先方の状態」は、それが確認できた時点で、はじめて「関西出張中」なのか、「東京にいる」のか、あるいは「休暇中である」のかといったことが決定するのであり、それはその時点での確認作業によってのみ、事実として成立するということです。

これを言い換えると、もし私が、昨日昼の段階で、先方に連絡をしていたら、先方は「関西出張中」ではなく、「東京にいた」かもしれないということでもあります。それは先方が、「関西出張中」であるにも関わらず、「東京にいる」と嘘をついているというような次元の話ではなく、それはその時点において、そう確認できてしまった以上、現実として先方が「東京にいる」ことが確定するということです。そのことによって、私は、先方が「関西出張」には行かない世界に身を置くことになり、今、私がいる世界とは別の世界の中で生きていたかもしれないということでもあります。もしそうだったら、私は今日、打合せに出ていたかもしれません。

非常に奇妙に思われるかもしれませんが、そうした奇妙さそのものが、現代科学の最先端で語られ得る、この世界の曖昧性だということです。

ただし、そうは言っても、私が認識しているのは、「この一つの世界」でしかありません。多世界解釈的な考え方に沿って、いかに「他の世界が無限に存在する」と言われても、私が、この肉体で、世界として認識できるのは、「この一つの世界」でしかないのです。既に、「この一つの世界」に収束してしまっている現時点において、仮に「昨日昼の時点で、私が連絡をしたとしても、先方はやはり関西出張中であった」ということは、否定しようのない事実です。そういう意味で、「他の世界が無限に存在する」というのも真でしょうが、「この一つの世界」しか存在しないというのも、また真であると言わざるを得ません(「「IF」のない世界と運命」参照)。

そんなことを思いつつ、今日はゆっくり台風が過ぎ去るのを待つのでした。

《おまけ》
「涼宮ハルヒの憂鬱」の「エンドレスエイト」は、このあたりの世界観をテーマとして扱っているものだと思います。同作品では、主人公・ハルヒが納得するまで、1万数千回の「夏休み」を延々ループしながら過ごすという設定でしたが、これは私たちの肉体が、「この一つの世界」しか認識できないが故に、作品の中で、延々ループさせるという表現にせざるを得なかったのだろうと思われます。実際には、延々ループするというよりも、1万数千通りの世界が、それぞれ並行して走っているようなかたちで考える方が妥当でしょう。そして、ある時点(同作品で言えば、夏休み終了時点)で、世界は(同作品で言えば、ハルヒが納得するかたちで)一つに収束(他の世界は消失)し、その結果としての世界を、常に私たちは「この一つの世界」を認識しているのだろうということです。あーっ、本当は東京にいたんじゃないのかなぁ(笑)!?

コメント (9)    この記事についてブログを書く
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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
JOJO (DTKS)
2009-10-09 10:30:00
ファニーバレンタインの能力ですな。
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無能力者ながら (竹内一斉)
2009-10-09 12:54:05
DTKSさん
コメント、ありがとうございます。そうですね。私は特殊な能力の持ち主でもなく、別に行き来できるわけではありませんが(笑)。
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デコヒーレンス (ポピベン)
2010-05-02 01:14:10
通りがかりのもので、すみません。

>つまり、先方が「関西出張中である」というのは、昨晩、先方からの連絡があった時点で、はじめて確定したのではないかということです。

デコヒーレンスとか考えればそうともいい切れないのではないのでしょうか?相互作用にかかわる原子の個数が大きくなると、一般的に干渉性の喪失(デコヒーレンス)という現象が起り、量子的な重ね合わせは急速に消滅してしまうそうです。

僕が勉強した知識によると、シュレディンガーの猫の状況でも、箱の中と外の間で少しでも熱のやり取りなどで相互作用があったりするとデコヒーレンスが起り、実際には観測者が箱を開ける前に猫の生死は決定しているようです(多世界解釈的に考えるならば、観測者が猫が死んでいる宇宙に分岐したか、生きている宇宙に分岐したかというのも、実際には箱を開けた瞬間ではないということになる)。

ブログで紹介されている例では、関西と東京を含むような巨大な物理系の中で、どの程度の速度で相互作用の伝達があり(例えば、大気や大地の原子によるフォノン振動のようなものを考察するのか?よくわかりませんが)、デコヒーレンスが起きて、「先方の状態」の量子的重ねあわせが消失する時間スケールをきちんと考えないと確かなことはいえないとは思うのですが、、

突然の長文のコメント失礼しました。
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デコヒーレンス(追加) (ポピベン)
2010-05-02 01:42:02
すみません、もう少し補足します。

>つまり、先方が「関西出張中である」というのは、昨晩、先方からの連絡があった時点で、はじめて確定したのではないかということです。

先方が「関西出張」を決定したことによる物理的影響(原子レベルのきわめて微細な影響も含む)が鎌倉(東京じゃなかったかも知れないですね。すみません)のオフィスに及んだ時点で、デコヒーレンスが起きるのかも知れません。

それはおそらくオフィスに電話で連絡が入る前に及んでいる可能性の方が高いと考えるほうが自然でしょう。でも、やはり先方の意思決定の瞬間からは、ある程度の時間的な遅延があるのかも知れません。それは例えば光速よりはだいぶ遅いのかもしれません(僕には、はっきり断定できるほどの知識はありません)。量子力学が提示する世界の曖昧さというのはやはり仰るとおりだとは思います。僕も多世界解釈を知ってから、時々同じようなことを考えて不思議だと感じたりしてます。
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達磨さんが転んだ (竹内一斉)
2010-05-02 05:34:38
ポピベンさん、コメントありがとうございます。

そうですね、おっしゃるとおりです。

ところで、私なりには、この宇宙が「デコヒーレンスが起きる」という説明がしやすい世界(そういう振る舞いをする世界)という解釈もできると思います。

何故、このような言い方にこだわるかというと、そのように考えた方が、宇宙で謎とされるダークマターやブラックホールに関する説明や心理学、社会学等、広く科学全般で言われること、さらに広がって宗教や哲学で論じられること、名言とされる言葉や日常生活に思うこと等の説明が、すんなり可能になるように思うからです。詳細は、このブログ全体を通じて述べているつもりです(さすがに「アニメランキング」や「産業」に関するカテゴリーは違うかもですが・・・)。

「月が動くのか!」とアインシュタインも言ったと言いますが、まさしく「達磨さんが転んだ」のような世界で、証明は難しいのかもしれません。

ただそれでも、私なりには、それらを勘案したうえで、意識的に「達磨さんが転んだ」を楽しんでいるような感覚です(笑)。
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ご返事ありがとうございます (ポピベン)
2010-05-02 11:05:54
>私なりには、この宇宙が「デコヒーレンスが起きる」という説明がしやすい世界(そういう振る舞いをする世界)という解釈もできると思います。

すみません、この言葉の意味することをもう少し噛み砕いて頂けるとありがたいです。おそらく竹内さんのブログをもっと読み通せば何かわかるのかも知れませんが。。
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最近のコメントの欄にあったので (エコ)
2010-05-03 00:14:13
私の中の一つの考えで、回りから見ればおかしな考えで、どう文にしていいのかわからないのですが、自分以外、感情を持つ人はいない、自己中心的な考えな感じですが、  竹内さんに4月期アニメについてのコメントいただきました(ありがとうごさいます)が、私にはそれでも、存在しない 周りの人(自分の知っている人、見えなくても私からして竹内さんのような人)などが 存在しない(下手すれば自分も)と、言えばよいのだろうか? 確認しても、自分の見て聞き触り体感した物はさて、正しいのか? そもそも正しいことなど無いのでわ?・・・もう、何書いてんのか自分でも分からなくなりなした、、、(涙) まあ分からないことだらけだからこそ、人生は楽しい?んでしょうがね! 最近はあんまり考えないようにしています。なるようになれ! 迷惑ならすみません。こういうの好きなもので・・・
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ミクロとマクロ (竹内一斉)
2010-05-04 18:31:02
ポピベンさん、コメントありがとうございます。

うまく説明できるか分かりませんが、基本的にミクロな世界とマクロの世界は、極めて密接に関わっており、カオス理論の「蝶と嵐」ではありませんが、極めて微小なインプットが、極めて大きなアウトプットに影響を及ぼすと考えるのが自然だろうと思っています。

干渉性の喪失というのは、干渉性を喪失させる確率が極めて(無限に近く)高いということで、ポイントは(こちらも無限に近く)無数にある宇宙のなかには、それがあたかもないように見える世界(キレイな世界)と、そうした干渉ばかりの世界(バグだらけの世界)というものが存在するのではないかということです。
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自分の実在性 (竹内一斉)
2010-05-04 20:04:39
エコさん、コメントありがとうございます。

なかなか面白い話ですね。よく分かります。私も、物心ついた時から、よくこんなことを考えていました。たしか藤子不二夫さんの短編SF「カンビュセスの籤」にあった「どことなくなんとなく」という話が、まさにこういう話で、ものすごく共感したのを覚えています。

自分の実在性、本当に自分は存在するのか、するとしたらどこに存在するのか・・・。これは死にそうな体験をすると、深く感じることができるようになると思います。

これは、悟りを開く「無我」が「我を無くす」、即ち「死」と紙一重であることとも、極めて密接に関係していることだろうと考えています。

そしてまた、個人的には、このことと科学の分野で論じられる「多世界解釈」とは、まったく矛盾しない(むしろキレイに説明できるようになる)だろうと思っています。
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