常識について思うこと

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与件として考えない天皇制

2009年11月24日 | 日本

天皇制については、いろいろな考え方があると思います。私は、特に維持論者でも、廃止論者でもなく、国民にとって必要であれば維持をすればいいし、必要ないなら廃止をすればいい程度にしか思っていません。ただ少なくとも、天皇制を聖域化して、その存廃の議論すらさせないような考え方があるとするのなら、それには真っ向反対したいと思います。

天皇は、この国唯一の主ではなく、この国及びこの国の主たる国民の象徴です。天皇制の存廃は、当然、この国の主たる国民が決められて然るべきです。憲法第1条の条文は以下の通りとなっています。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」

天皇制については、まずこの基本的な大原則をきちんと押さえておく必要があるでしょう。

そして私自身は、天皇の「象徴」という位置付けからすると、今日の天皇に対する敬語の使われ方に、少なからぬ違和感を覚えています。天皇に対しては、他の一般の人々に対するものとは異なる尊敬語を用いることが多いようですが、これは天皇を「象徴」以上の存在として、捉えているような印象を受けるのです。

もし、天皇が「国民統合の象徴」であるならば、それは自分たちを含めた国民を鏡に映したような存在です。この関係は対等であり、けっして上下ではありません。もちろん、「一国民」と「国民統合の象徴」では、「個体 vs 全体象徴」であり、「全体象徴」が「個体」より重いという論理はあるかもしれません。しかし、「全体」はあくまでも「個体」の集合に過ぎず、「個体」を軽んじる「全体」が、まともに機能するはずはありません。「個体」と「全体象徴」は、互いに尊重し合わなければならず、それは上下関係というよりも、むしろ役割分担と考えるべきではないかと思うのです。

したがって私は、「一国民」と「国民統合の象徴」とを目前に置いて、事の軽重を論じようということ自体が、そもそも意味のないものと考えます。その上で、天皇を軽んじることは、自分自身や他の国民の方々を軽んじることにもなるでしょうから、それは控えるべきだと考えます。しかし、天皇ばかりを一方的に上に奉るような敬語を用いるのは、「象徴天皇」に対して適切ではないだろうと思うのです。もし、そうした敬語を使うのであれば、一律に全ての国民に対して、それを用いるべきでしょう。

このように考えていくと、天皇や皇族の方々ばかりを特別扱いした言葉遣いや接し方に対しては、少なからぬ疑問を覚えざるを得ないのです。

また天皇については、日本国を統べた偉大な存在であり、長い歴史を引き継いできたトップという見方もあるでしょう。そうした歴史的見地から、天皇を特別扱いする立場も分からないではありません。

しかし、長い歴史を真剣に見つめていくと、天皇に関しては、必ずしもポジティブな部分だけでなく、裏切りや反逆といったネガティブな側面も見逃すわけにはいかなくなります。このことは、天皇の正統性を根本から揺るがすのであり、正直、「必要ならいればいいし、不要ならいなくてもいい」程度の存在にしかなり得ないということにもなるのです(「日本建国史の再考」、「「右翼」との向き合い方」等参照)。

こうした歴史的な見地を含めてみても、必ずしも、天皇制の議論を聖域化して、未来永劫守り続けなければいけないというのは当たらないと考えます。そういう意味で、この国の国民は、天皇制を動かすことのできない与件として考えず、常にその必要性を吟味したうえで、広く議論をしていけばよいのだろうと思うのです。

《おまけ》
ここでは、天皇制の存廃について、国民の立場から考えてみましたが、一方で天皇ご本人、あるいは皇族の方々の立場から、それを考えるということもあり得るのだろうと思います。現在の皇太子は、天皇制と自らの家庭という狭間の中で、いろいろと悩まれている部分もあるのではないかと考えます。この問題は、国民にとっての問題であると同時に、天皇やその周辺にいらっしゃる皇族の方々にとっての重大な問題でもあるのです。天皇制に関しては、こうした皇族の方々においても、動かすことのできない与件として考えるのではなく、常にその必要性を熟考してみることが許されてもよいのではないかと思うのでした。

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