常識について思うこと

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東国の神々へのご挨拶

2008年07月21日 | 日本

鹿島神宮入り口

鹿島神宮の鹿

香取神宮入り口

鹿島神宮と香取神宮に行ってきました。この二つの神社については、いろいろと思うことがあります。鹿島神宮の入り口の鳥居前には、大きな鹿の像があり、境内にも飼育されている鹿がいます。今でこそ、奈良県の奈良公園で放し飼いされている鹿が有名ですが、その鹿は鹿島神宮に由来しているものであることは、あまり知られていないかもしれません。そして、利根川を挟んで鹿島神宮の反対側には香取神宮があります。非常に、狭い地域に肩を並べた二つの神社ですが、これら二つの神社には大変な興味を覚えます。何故ならば、日本建国の歴史を考えたとき、これら二つの神社は、非常に大きな役割を果たしていると考えられているからです。

元来の日本を建国したとされるのは、出雲大社の大国主大神であると言われています。日本において、10月のことを「神無月」と言うのに対して、出雲においてだけは「神在月」と呼んだりするのは、日本における出雲の特殊性を反映していると思います。

その後、大国主大神に対しては、有名な「国譲り」があり、天照大神が国を建てて、神々の頂点に立つことになります。このとき、出雲大社の大国主大神に対して「国譲り」の交渉を受け持ったのが、伊勢神宮の天照大神の命を受けた武甕槌命(鹿島神宮の祭神)と経津主命(香取神宮の祭神)でした。

大国主大神の日本建国を第1期建国とするならば、第2期建国は天照大神が為したものであり、その実行者が天照大神の命を受けた、鹿島神宮の武甕槌命や香取神宮の経津主命であったわけです。そういう意味で、武甕槌命も経津主命も建国の大功労者と言えるでしょう。平安時代に「神宮」を称した神社は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の3社だけだったという話もあるので、それを考えるだけでも、この2柱の役割の大きさは、容易に想像できるのではないかと思います。

ところで、日本の建国には、大きな闇が潜んでいた可能性は否定できません。「国譲り」というのは、第2期建国をした天照大神側の論理であり、それは一方で「国獲り」の側面もあったのではないかと考えるのが自然でしょう。当時の正義が、大国主大神と天照大神のどちらにあったのかは別にしても、現在を生きる私たちが、「正史」という言葉に惑わされ、「日本書紀」のような書物を通じて、「国譲り」の側面ばかりを信じる理由はないと思うのです。もっと別の言い方をすれば、第2期建国をした天照大神たちは、本来の国の主であった大国主大神に譲位を迫った大逆賊であったという見方もできるという可能性があるわけで、そうであるにもかかわらず、天照大神や他の2柱に対して、手放しに賛辞だけを送るということには、問題があるかもしれません(「「国譲り」の二面性」参照)。

ただし私自身は、こうした神話を理由に、武甕槌命や経津主命が本当に逆賊のような行為を犯した可能性があるということについて、疑問を持っています。もっと端的に言えば、武甕槌命や経津主命は、創作された神話によって、天照大神の命を受けて「国譲り」に加担したことになっているだけの可能性もあるということです。

日本の歴史は、大化の改新以降、大きく書き換えられた可能性があります。大化の改新を境に、それまでの史書であった「国記」や「天皇記」が焼失し、新たに「日本書紀」が編纂されました。「日本書紀」は「正史」としての位置付けにあり、現在の一般的な日本史は、こうした「正史」がベースとなって考えられています。しかし、日本史の真実を知るためには、それ以前の歴史についても、きちんと考慮しない限り、全体像は見えてきません。

以下は、そうした全体像を捉えるための仮説に基づきます。

もし大化の改新で、日本の権力構造が大きく変わっているとしたら、それ以降の権力の座についたのは、その実行者であった中大兄皇子や中臣鎌足、その関係者であったと考えるのは自然です。壬申の乱などの混乱もありましたが、日本の権力構造の頂点に立ったのは、中大兄皇子の娘である持統天皇であり、中臣鎌足の息子である藤原不比等でした。

仮に、こうした権力構造の大転換があったとして、新たに権力の座についた者がしなければならないのは、自らの正当性を確保することです。ここに神話が利用された可能性は、大いにあります。つまり、女性天皇である持統天皇とそれを補佐する藤原氏という体制を、女神たる天照大神とそれを武甕槌命や経津主命といった神々が補佐するという構図に置き換えているかもしれないということです。ちなみに「日本書紀」が扱っているのは、神代から持統天皇までの時代です。

また実際、藤原氏の氏神を祀った春日大社には、第一殿に鹿島神宮から迎えられた武甕槌命、第二殿に香取神宮から迎えられた経津主命が祀られています。現代の一般的な認識としても、天照大神の伊勢神宮が神々の頂点として祭られていることを考慮すれば、天照大神=持統天皇、武甕槌命・経津主命=藤原氏という構図で理解するのは、それほど無理があるようには思いません(詳しくは、「日本建国史の再考」参照)。

そして私は、この仮説を採択するならば、武甕槌命や経津主命が、天照大神に協力して「国譲り」をさせたと断じることは、逆にできないと考えています。

少々、分かり難いかもしれませんので、きちんと整理しながら進めたいと思います。

もし、権力の大転換が起きて、新たに権力を掌握した人々がいたとするならば、その権力の正当性を必要としていたのは、その実在の人々であったということです。つまりは、大化の改新以降、「日本書紀」の編纂によって、自らの権力を正当化させるために「国譲り」をさせた(あるいは、そのストーリーを必要とした)のは、あくまでも実在の人間たる持統天皇や藤原氏だったであろうということでもあります。

一方で、神々としての武甕槌命も経津主命も、それぞれ何らかのかたちで祀られる対象ではあったのでしょうが、「日本書紀」に登場した神々の振る舞いは、そのストーリーに合わせて創作されただけの可能性もあるということです。このことは即ち、武甕槌命も経津主命も、「国譲り」には関わっていなかったかもしれないということでもあるのです。

別の言い方をすれば、日本建国史に関しては、武甕槌命や経津主命に、それぞれ二つの顔が持っている可能性があるということです。それは東国の鹿島神宮、香取神宮に祀られているという「本来の顔」と、春日大社に藤原氏の氏神として祀られているという、権力者によって「被された顔」です。

持統天皇や藤原氏が「日本書紀」で展開されるストーリーに、必要なキャラクターとして武甕槌命や経津主命を登場させたとしたら、本来、鹿島神宮や香取神宮に祀られていた武甕槌命や経津主命の行いとは違ったかたちで、「日本書紀」の記述が進められた可能性があるのです。また今日まで伝えられている神話に纏わる常識も、相当間違っているかもしれないということにもなります。藤原氏としては、「日本書紀」に登場させたキャラクターやストーリーに沿って、2柱を自らの氏神として、春日大社に迎えたのかもしれません。そうだとすると、上記の「被された顔」ばかりが世間に広まり、今日まで「本来の顔」が隠され続けている可能性があるわけです。そうなると、私の興味は、武甕槌命や経津主命の「本来の顔」とは、一体何だったのかということに注がれます。

いずれにせよ、歴史の真実は、まだまだ分からないことだらけです。しかし、疑問を持ち続けることは、非常に大切なことだと思います。こうして考えてみると、武甕槌命や経津主命だけではなく、天照大神の「本来の顔」も隠されているような気がしてなりません。当然のことながら、「日本書紀」が編纂される以前から、伊勢神宮はあったでしょう。そうだとすると、天照大神の「本来の顔」とは何だったのでしょう。一説によると、天照大神は男神だったともいいます。

ポイントは、思考停止を起こさないことです。そんなことを思いながら、鹿島神宮と香取神宮での神様へのご挨拶を終え、帰途に着いたのでした。

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