常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

責任を伴う「場」の提供

2009年07月29日 | 産業

次世代のコンピューターやネットワークの仕組みについては、このブログの中で、少しずつ整理をしております(「シン・クライアントの潜在力」、「ネットとコンピューターの融合」、「新コンピューターシステム」等参照)が、その内、インターネットの匿名性の問題に関しても、きちんと取り組んでいかなければならないものと考えます。インターネットにおける匿名性は、現実世界から抜け出して、「自由な擬似的世界」を創出するという意味で、ひとつの良さとして働いてきた部分もあるでしょう。しかし、匿名であることに便乗して、無責任な発言や行動をしてしまっては、「自由」の意味を履き違えることになります。このことは、せっかく広く普及してきているインターネットの文化を廃退させてしまう可能性をも孕んでいるため、インターネットを社会インフラとして機能させるための仕事に携わっている方々には、この問題に対して、極めて真剣な対応が求められます。

匿名性で、問題になるもののひとつに、2ちゃんねるのような掲示板でのあらし行為が挙げられます。以下は、ひとつ、私の経験から思うことです。

私は、2ちゃんねるで、実名での書き込みをしたことがあります。それは以前、私が関係した会社で、その会社の顛末について説明責任があると感じたことから、2ちゃんねるを使って、擬似的な記者会見のようなものを行おうとした結果です(当時、会社の人間として、きちんと記者会見を行えるような立場ではありませんでしたが、当の説明責任を果たすべき方々が、雲隠れをしてしまったような状況であったため、そうした行動を取りました)。2ちゃんねるで書き込むスタイルとして、極めて普通のことですが、私が実名で書き込みを行うのに対して、私以外の方々は、おそらく全て匿名で、自分が誰だか分からないようなかたちになっていたように思います。

当然のことながら、私は実名で、正体がばれていますので、それなりの責任感と真剣味を持って、書き込みに臨みました。また、私に対するコメントと分かるものについては、誠意を持ってお答えするように努力もいたしました。いただくコメントの中には、事実認識が誤っているようなご指摘があったりもしたため、そうしたものへの対応を含めて、できる限り事実をお伝えするようなコメントをさせていただきました。ところが、2ちゃんねるでは、複数の場所で、私に関するコメントがなされたため、それらについて全て対応させていただくことはできませんでした。結局、数日間、それなりのやり取りをさせていただきましたが、それでも、私の目が届かないところで書き込まれた内容については、放置してしまうようなかたちになってしまいました。この放置状態になったコメントは、今もインターネット上に残っているようですが、それらのいくつかに対しては、事実誤認も含めて、どうしてもインターネットの匿名性に便乗した無責任な発言である感を排除することができません。これをあらし行為と呼べるかどうかは分かりませんが、「匿名性に便乗」という意味では、大いに同質性があると言えると思います。

あまりにも基本的なことなので、あらためて言うことでもありませんが、「自由」には、それを享受するための責任が求められます。そして、それに相応しい緊張感を持たなければなりません。今のインターネットでは、匿名性に便乗した無責任、無緊張な人々が、やりたい放題にできる仕組みになっている側面を否定できず、これに対する解決策を示し、実行していくことが、これからのインターネットシステムにおいて、極めて肝要ではないかと考えます。

こうした考え方において、私が準備を進めている新しいコンピューターにおける認証の仕組みは、そうしたインターネットの匿名性の問題に対して、非常に有効に作用していくのではないかと思います(「携帯電話システムの強み」参照)。つまり、その新しいコンピューターの利用においては、ネットワークに接続することが大前提であり、その折には、必ず認証プロセスを経ているため、確実にユーザーを特定できるからです。ユーザーの名前を明かすかどうかは別問題として、少なくとも、ユーザー固有の情報が、きちんと固定された状態で、トラックできる仕組みというのは、現状のインターネットの匿名性の問題を解決し得る大きな鍵にはなるのではないかとは思います。ちなみに、ここで言う「きちんと固定された状態」というのは、携帯電話の認証のように、SIMカードといったハードウェアや課金情報と紐付いていることを指しています。現状のインターネットの世界で、最も一般的なIDとパスワードの認証では、なりすましや複数IDの取得等、かなり曖昧で、揺らいだ状態でのユーザー特定を強いられますが、これに対して、上記のような「固定された状態」でのユーザー認証というのは、かなり大きな意味を持つものと考えられます。

もちろん、何かあったときに、自分が特定されてしまうというのは困るという考え方もあるでしょう。それも、まったくその通りだと思います。したがって私は、要は使い分けだと考えており、あくまでも、現在のインターネットの匿名性の仕組みが望ましい領域については、それは厳然と存続していくのだろうと考えています。

新しいシステムが生まれることは、必ずしも古いシステムの消滅を意味するものではありません。匿名性に意味があるサービスや文化があることは確かでしょうし、そうしたものについては、現在のインターネットの仕組みが、機能し続けるということは、ある意味で当然であると考えます。

しかし、インターネットを本当に社会インフラとして機能させようとするのであれば、そこに参加する人々が、それに相応しい責任と緊張感を保つための仕組みを備えていくことも、やはり必要ではないかと思うのです。そして、そうした責任と緊張感を持つということは、通常、現実世界において、私たちが当たり前のようにこなしていることであり、何も特別なことではないと思います。つまり、私たちは、現実世界においても、そうした「場」の使い分けをしているということです。

それは、現実社会においても、「他者との関係を意識し、責任感を持って振舞うべき場」があるのに対して、一方で「他者との関係を気にせず、自分の世界に浸ってリラックスできる場」があるということです。現在のインターネットは、後者の仕組みとしては十分に機能していますが、前者のような仕組みがきちんと確立しているとは思えないのです。そして、後者の仕組みに甘えて、悪乗りしてしまう人々が存在しているが故に、健全な社会インフラとしての発展が阻害されているという側面があるのではないかと考えます。

こうした観点から、まずもって私としては、各個人がきちんとした責任を持って参加できるインターネットの仕組みが必要であると強く感じています。そして、そうした責任を伴う「場」の提供を通じて、インターネットのルールをより現実世界に近似化させ、それを健全なかたちで、社会インフラとして根付かせていくことができるのではないかと思うのです。

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