物事には必ず二面性があります。その二面性を考えるヒントとし、現在を境に「過去」と「未来」に分けて物事を捉えると分かりやすいかもしれません。
現在を生きる人間にとって、未来を切り開いていくことは、非常に大切なことです。なぜなら、未来を切り開いていくこと自体が、人間にとって生きる目的となり、そのために人間は力強く、そして前向きに生きることができるからです。ところで、未来を切り開いていくことは、現在あるものを否定し、新しいものを創っていくということでもあります。しかし、現在あるものをばっさりと切り捨てることはできません。否定されてしまうそれは、たとえ未来において必要がないものであったとしても、過去においては非常に大きな役割を果たしてきたのであり、それがあってこそ現在があると考えれば、それに感謝の念を持って接していかなければならないからです。
ひとつ例を挙げましょう。
人々の移動手段は大きく発展を遂げてきました。もともと、自分の足で歩くことでしか移動できなかった人間は、さまざまな手段を使って、効率的に移動できるようになりました。産業革命以前まで、人間を高速で移動させるのは「馬」でした。馬に直接乗るということもあれば、馬に車を引かせて馬車にするという方法もあります。いずれにせよ、人間にとって高速移動手段として、馬の役割がきわめて重要な時代があったのです。それが、産業革命による新しい動力源の登場により、馬は高速移動の手段として、急速に役割を失い始めました。新たに人間を運ぶ道具となったのが鉄道であり、自動車であり、飛行機などです。
しかしこの移動手段の発展の過程のなかで、新しい動力源の登場が、たちまちにして鉄道や自動車などを生み出したのではありません。それまで、馬を中心に発達した交通インフラがあり、その便利さを人々が知っていたからこそ、新しい動力源を使った機械の発明が生まれたのです。産業革命時点における「現在」において、鉄道や自動車のような「未来」の創造は、馬を中心とした「過去」の交通システムがあったからこそ誕生したと言えるのです。
このように、現在において切り開いていかなければならない未来は、必ず過去に立脚して存在しうるのであり、その過去を完全に否定しきって、成り立つことはありえないということなのです。
このことは、未来を切り開いていくことを使命として課せられた人間にとって、非常に重要なことだと思います。
今、地球は人類が成してきた所業により、急速な変化を始めています。このまま無策な状態を続けては、環境問題はますます深刻化し、いずれ取り返しのつかない状況に陥ると思われます。人類が地球に住まい続けるため、子供たちの世代にきちんと地球を渡していくためには、現在を生きる我々が未来を切り開いていかなければなりません。未来を切り開くとき、過去の産物は役割を終えたことを認識し、そのうえで新しいものを創り出していかなければならないのです。大切なことは、そうは言っても、現在は過去の産物により立脚しており、それがあるからこそ新しいものを創り出していけるのであるということを理解することです。現在は、過去と未来の接点であり、その現在において、我々がすべきことは、過去を切り捨てずに感謝し、それらをすべて背負いながら、未来を切り開いていく挑戦を続けていくことです。
それでは、切り捨てずに感謝し、背負うべき過去とは何でしょうか。
それは、過去のものすべてです。自分を取り巻く過去の産物すべてに対して、例外なく敬意を払い、感謝し、背負ってこそ、未来を切り開くための力を得ることができるのです。家庭、職場、業界、制度、法律、国家、宗教・・・。あらゆるものが背負っていくべき対象となるでしょう。そこまでの根本的な見直しができなければ、人間同士の争いは絶えず、地球環境の問題は解決しえないのです。
過去の産物は、現在を現在たらしめるために大きな役割を果たしてきました。時間は巻き戻すことができません。それらの過去は、けっして変えることができないものなのです。未来において、それらが過去と同じように存在できないとしても、それらは過去に存在していたものであるから、その事実は事実として受け入れていかなければならないと考えます。受け入れると同時に、感謝の念を持ち、それを大切に背負っていくことができたとき、はじめてそれらに代わる新しいものを創り出し、未来を切り開くことができるのです。
現在目の前にあるものの二面性。それは過去においてどうだったか、未来においてどうであるかという、このような視点において生み出されます。
たとえば、宗教についても考えてみたいと思います。
宗教は過去において多くの人々を救済してきました。大きな功績があると言っていいでしょう。しかし、宗教が存在することによって、人類の歴史は争いの繰り返しでもありました。地球環境問題を目前にした我々人類にとって、相変わらず現存の宗教を許したままで、その歴史を繰り返していてよいものでしょうか。未来において、もはや宗教は不必要なのではないでしょうか。そんな問いかけが必要な時代に入ってきているのではないかと思うのです。
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