常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

自力救済と他力本願

2009年11月19日 | 人生

先日、話をしていた相手から「貴方がやろうとしていることは、自力救済ですか?他力本願ですか?」という質問を受けました。

厳密な用語の定義はさておき、趣旨としては、なかなか面白い質問だと思います。私の答えは、「両方とも真」、つまり「自力救済でもあり、他力本願でもある」ということです。

ズルい答えに聞こえるかもしれませんが、これは、至極当然のことでしょう。人間は、全て自分一人でできるというほど大層な存在ではなく、そう考える人がいるとしたら、それは単なる驕りでしかありません。一方で、自分は何もせず、何でもかんでも他人任せにするような人も、単なる甘ったれで、自分自身でやり遂げる努力が求められることになるでしょう。

大切なことは、「両方とも真」であることを知りつつ、どこで線引きをするかということです。

自分がやるべきことは、徹底的に自分一人でやり遂げるべきです。しかし、他人ができることや他人がすべきことにまで、足を踏み入れてしまうと、その人自身を甘やかすことになり、結果として、自分のためにも、その人のためにもなりません。そういう意味で、他人事には一切介入せず、他力本願してしまうという姿勢も非常に重要だと思うのです。

自分ができるということは、「自分が優れている」ということです。これは同時に、「他者が劣っている」ということを意味することにもなります。しかし、真実はそれでは済まされません。「自分が優れている」ことは事実であり、真実ながらも、同時に他の点においては、「他者が優れている」ことも事実であり、その重要性を忘れてはならないのです。即ち、「自分が優れている」、「他者が優れている」というのは、けっして相反するものではなく、両方が同時に成り立ち得ることを見極めなければならないということです。

このあたりの発想は、本ブログでも、繰り返し述べている「物事の二面性」に通ずるものがあります(「常に変化する主従関係」、「交錯する正義と悪」、「大きな矛盾を抱えるべし」等参照)。別の表現をすれば、「自分は神であり、他者もまた神である」といったことになるのかもしれません(「「自分教」の薦め」参照)。

こうした線引きができない人、自分と他者との間合いを掴めない人は、それを見切る力を磨かれてはどうかと思います。それができるようになると、人生を割り切れるようになり、だいぶ楽しく過ごせるようになるのではないかと考えます。

《おまけ》
今の政治家の方々が展開される議論には、とても失望しますし、がっかりさせられることも多いです。しかし、ひとまず私としては、現在の選挙制度において、有権者としての権利を行使し、自分ができることは精一杯した、「自力救済」の努力を行ったという自負もあります。国会における論戦は、私が参加できるものではないので、とりあえずは国会議員に選出された方々にお任せする、「他力本願」しかありません。将来にわたって、現在の状況に甘んじようとは、全く思いませんが、ひとまず今日時点では、「自力救済」と「他力本願」の線引きをしておいて、ゆっくりと人生を楽しむということが大切なのだろうと思います。諸行無常、諸法無我・・・。

コメント (2)
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