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日本建国史の再考

2008年01月29日 | 日本

現在の日本史観は、8世紀に編纂された古事記や日本書紀の上に成り立っています。そのうち日本書紀は、日本における最古の正史であり、当時の日本の政権が正しいと認めたものです。ところで、何故この時代に正史が編纂されたのかという点については、少々考察する必要があるのではないかと考えます。

一般に「正史」は、その語感もあり「これは正しい歴史書である」というイメージを与えてしまっています。そのため、そこには深い疑念を抱いたり、それに対して突っ込んだ検証をしたりということが、十分になされていない可能性があります(一部でそうした研究が進んでいると認識していますが、まだ学界全体でみると、ごく一部の動きに過ぎないのではないかと考えます)。つまり、その書物に何が書かれているかという研究ではなく、そもそも正史が何故、どういう理由で編纂されたのかということまで踏み込んだ研究が、不十分である可能性があるということです。

以下、日本史を根底から考え直すきっかけを提供するという意味で、私の仮説を述べておきます。これはあくまでも仮説であり、現時点において、すべてが証明されているわけではありませんが、今後、学術的な視点から、検証がされうる可能性がある問題だと考えています。

まず私の仮説に入る前に、そもそも正史とはどういうものかについて考えていく必要があります。例えば、中国では数多くの正史が出ています。ご存知の方も多いかもしれませんが、中国の正史は、王朝が変わるたびに編纂されています。正史の編纂には、いろいろな理由があると思われます。純粋な「歴史の記録」のためという理由もあるでしょう。しかし、正史の編纂には、それをまとめる王朝が自らの正当性や正統性を強調するための道具に使ったという側面があることも見逃してはならないと思います。

中国では、王朝交代毎に正史を編纂することが、国家の事業となっていました。新しい王朝が興ると、旧王朝時代の出来事を「正史」というかたちでまとめていくわけですが、ここに新しい王朝の意図が働きます。つまり、旧王朝時代の記録をまとめながらも、旧王朝に対して、自らの統治がより正しいことを示すために、正史編纂の事業が利用されてしまうわけです。ここに「正史=正しい歴史書」とのみ見ることの危険性が潜んでいます。特に中国の場合、正史により自らを正統化しようとした王朝に対して、さらに新しく興った王朝が正史をまとめるといった繰り返しがあったため、正史が新しい王朝の正統性を示す道具に利用された側面が強かったかもしれません。

いずれにせよ、このように正史には、それを認めた政権にとっての「正しい歴史書」にしようとする側面があるため、単に「正史=正しい歴史書」とのみ捉えることには危険が伴っているということを十分に認識しておかなければなりません。

これまでの日本史観については、こうした側面における考察が十分でない可能性があるため、ここでは敢えて、そうした可能性に焦点を絞った仮説を立てておきたいと思います。

それは端的に言うと、「大化の改新時に天皇が受難している」というものです。もちろん、現代の一般常識においては、とても受け入れ難い仮説でしょうが、ひとまず本仮説について、以下、簡単にポイントだけをまとめておきます。

①大化の改新
 大化の改新とは何かについて、あらためて詳述する必要はないと思いますが、一応基本事項だけ記しておくと、645年に中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が、当時、権勢を振るっていた蘇我入鹿を討ち、さらにその直後に蝦夷が自害することで、蘇我氏が滅亡した後に実行された政治改革のことです。

②史書の焼失
 大化の改新以前、聖徳太子や蘇我馬子が編纂した「国記」や「天皇記」といった歴史書が存在していたといいます。しかし、これらは蘇我蝦夷邸が焼かれたときに、焼失されたということになっています(焼失していない、あるいは一部現存している可能性がある等の説がありますが、少なくとも、国記や天皇記そのものを基にした日本史観というものは、現在のところありません)。

③正史の編纂
 日本最古の正史は「日本書紀」になります。日本書紀は、神代(神話の時代)から持統天皇までを扱っており、720年に成立しています。持統天皇は天智天皇の娘にあたり、彼女を支えたのが中臣鎌足の息子であり、実質的な藤原氏の祖でもある藤原不比等です。

この①~③の一連の大事件・大事業には、中大兄皇子(天智天皇)-娘の持統天皇(日本書紀の最後を飾る人物)、中臣鎌足-息子の藤原不比等が登場しています。そして、これらの間には「国記」や「天皇記」の焼失といった事件が起きているのです。ここには、非常に大きな権力交代があった可能性が潜んでいると思います。

余談ですが、天智天皇と持統天皇の間には、「壬申の乱」でも有名な天武天皇がいますが、私はいわゆる天智系と天武系は対立関係にあり、持統天皇は天武天皇の妻でありながらも、天智天皇の娘であり、天智系に属していたと考えています。天武朝では陽の目を見なかった中臣氏は、天智朝の持統天皇に重用され、力を持つようになったのではないかと推察しています。

いずれにせよ、天智天皇(及び血縁者)と藤原氏は①大化の改新、②旧史書の焼失、③正史の編纂という日本古代の一連の大事件・大事業に関わっていることは事実だと思います。

そして以下が、私が考える日本建国以降、正史編纂に至るまでのストーリー(ポイント)です。

(1)建国:出雲朝(大国主大神)による建国
(2)討伐:出雲朝の九州(邪馬台国)討伐
(3)反乱:大和における出雲朝に対する反乱
(4)鎮圧:九州からの大和鎮圧(いわゆる「神武東征」)
(5)再建:出雲系大和朝の樹立(いわゆる「神武朝」の始まり)
(6)反逆:出雲系大和朝の滅亡(いわゆる「大化の改新」)
(7)書換:史書の処分、正史の編纂

以上、非常に単純化した整理になっていますが、先に述べた①大化の改新~③正史の編纂は、上記(6)反逆~(7)書換に対応するものであるというのが、私の仮説になります。この仮説の検証は、とても本ブログでやりきれるようなものではありませんので、ひとつひとつの検証については、別途学界関係者の方々に譲りたいと思います。ただ本仮説が、何の根拠もなく設定されているわけではなく、私なりにさまざまな「日本史の謎」とされるポイント等を含め、克服できるように考慮しています。全てを挙げることはできませんが、例えば、本仮説によって、以下のようなポイントを説明できるようになる可能性があると考えます。

①出雲の特殊性
 日本の神話によると、出雲大社の大国主大神は天照大神に先んじて国を造り、最終的に天照大神に国を譲った神様となっています。そういう意味で、もともと出雲の大国主大神は本当の日本建国の神様であり、他の神様に比べて、極めて特殊であると言えると思います。日本全国において「神無月」と呼ばれる10月を、出雲だけは「神在月」と呼ぶといったことは、そうした特殊性に裏付けられている可能性があると思います。

②天照大神と春日大社
 天照大神は国を譲り受けていますが、この神様は女性ということになっています。持統天皇も女性です。また藤原氏の氏神が祀られているのは春日大社ですが、そこでは第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命(第三殿は天児屋根命、第四殿は比売神)が祀られています。武甕槌命や経津主命というのは、日本神話において、天照大神の命を受けて、出雲に対して国譲りの交渉をしている神々です。これら天照大神と春日大社の神々(プラス「大国主大神」)の関係を、持統天皇と藤原氏(プラス「受難した出雲系天皇」)といった構図で重ね合わせて検証していくと、新しい発見がなされる可能性があります。例えば、現在のように「国造り」をした大国主大神(出雲大社)より、「国譲り」を受けた天照大神(伊勢神宮)の方が、神話等を含めて、扱いが上になっているといったこと等を説明できるかもしれません。

③聖徳太子の不思議
 聖徳太子は大化の改新以前の日本において、冠位十位階や十七条憲法を制定する等、古代日本国家の形成に比類ない功績を残しています。しかし一方で、出生に纏わる不思議な話や超人的な伝説、天皇即位説、さらにはその実在性すら疑問視されるといった大変不思議な人物です。また、聖徳太子の寺として有名な法隆寺夢殿からは、後頭部に釘打ちされて白布でぐるぐる巻きにされた救世観音像が発見されており、聖徳太子の怨霊封じであるという話もあります。こうなると、聖徳太子という人は多大な功績を残しておきながら、誰かを恨むような死に方(或いは殺され方)をしたと見ることもできるのです。こうなると、何が何だか分かりません。

もう少し突っ込んだ仮説を置くとすると、私は日本書紀が、大化の改新のときに受難した「出雲系天皇一族」を「聖徳太子(善玉部)」と「蘇我氏(悪玉部)」に分けて整理したと考えてはどうかと思います。つまり、聖徳太子という名称はともかく、それに当たる人物は存在しており、ただそれは一人の人物ではなく、蘇我氏と表裏一体となって、天皇として存在していたということです。もう少し分かり易く整理すると、受難した天皇一族を「蘇我氏」や「悪玉」としてのみ仕立て上げると、国造りの功績や実績を上げた部分が空白化してしまうため、それを成し遂げた蘇我氏と別の人物が必要となり、それを埋め合わせるために「聖徳太子」という人物を創作したということです。

どちらにしても、これらは大変重いテーマですし、とてもブログですべてを扱うようなわけにはいきません。また検証にも多くの時間が必要になると思います。しかし、いつまでも経っても、真相が分からないということもないでしょう。いずれ、そもそも日本という国がどのような精神に基づいて建国されたのか、そしてどのような経緯で現在に至っているのか、明らかになるときが来ると思うのです。

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