-何が正義か分からない-
こんなことを言う人がいます。たしかに100人いれば、100人の正義があるというのは、ひとつの側面として正しいと思います。しかし、これを認めたうえで、敢えてもうひとつの側面についても、触れておく必要があるのではないかと考えます。
-ひとつの絶対的な正義が存在する-
この言葉の意味は、極めてシンプルです。「ひとつの絶対的な正義」とは、自分が掲げる正義です。つまり、自分自身の存在こそが、唯一無二の正義ということになります(「「自分教」の薦め」参照)。
「何が正義か分からない」という言葉を否定するつもりはありませんが、この言葉を裏返せば、「自分の正義に自信が持てない」ということでもあるということです。また、今日のように混沌とした世界において、他者が主張するいくつもの正義が濫立してしまっていては、ますます自分が掲げる正義に自信を持てなくなってしまうというのは、仕方のないことなのかもしれません。
しかし私は、人類の未来を考えるにあたって、そうした濫立してしまう程度の正義が、次の新しい時代にまで持ち越されていくことは、非常に難しいのではないかと考えます。
正義が濫立するということは、それら正義間での争いを生む原因になり得ます。無数の正義の存在は、無数の争いを生むことになるのであり、地球という星が、人類の生活の場として、さまざまな意味で限界を迎える時代にあって、そうした争いは、人類自らの滅びを招きかねない状況にあると思うのです。つまり、そうした濫立してしまう程度の無数の正義が、次の時代に持ち越されてはならないというのは、誰か特定の人間の意思というよりも、人類が生き延びていく上での必然と考えても良いのでないかということです。
こうしたなかで、濫立して存在している正義は、最終的に「究極的な正義」、即ち「ひとつの絶対的な正義」として、ひとつにまとまっていくことになるものと考えます。この正義のポイントは、「究極的な全体」のために存在するということです(「正義がひとつになる時代」参照)。
この点、もう少し説明すると、現在のように正義がバラバラで、濫立してしまっているということは、それら正義の存在理由が、「究極的な全体」のためのものでなく、どこか閉じられた「全体の一部」、あるいは「小さな全体」のためだけのものである可能性があることにほかなりません。それを分かりやすい言葉で表現すれば、その正義の存在理由が、特定の家族だけであったり、特定の会社だけであったり、特定の国家や宗教だけに閉じた世界ということになるでしょう。つまり、濫立した正義というのは、そうした「小さな全体」のためだけに存在する「小さな正義」である可能性があるということです。また、このことが、異なる正義同士の争いを生む原因にもなるのです。
ただ逆に、こうした無数の「小さな正義」が存在してしまっているとしたら、本来、正義を育てる側の悪にも、「小さな悪」しか存在していないということができると思います。つまり、「小さな悪」しかないが故に、「小さな正義」しか育たないということです。
悪は当たり前のことながら、悪いことなので、本来好ましくないものと考えるべきです。しかし一方で、悪が存在するが故に、人々は何が正しいのかを見つけようとすることができるという部分も見逃せません。
もし悪が全く存在せず、何の問題もなければ、そもそも何をもって正義とするかについては、真剣に考える必要がなくなります。つまり悪もなければ、正義もない世界が成り立ち得るということです。私は、もしこの世界が、正義も悪もない状態で、均衡を保てるとしたら、それはとても理想的なことだと思います。そして本来、世界はそうあるべきではないかとも考えます。しかし、それはけっして、今日の世界における現実ではありません。
このことを換言すると、悪があるから、正義が目覚めるということでもあり、もう少し違う言い方をすれば、悪が正義を育てるということかもしれません。
ところで、これらの問題を考えるときには、常に時間軸を整理しなければなりません。時間は、果てしなく流れ続け、過去から現在、現在から未来へと繋がっています。大切なことは、上記の「小さな正義」と「小さな悪」で、十分世界が成り立っていけるというのは、あくまでも過去から現在における時間軸においてであるということです。一方の現在から未来の世界においては、それが許容されない可能性があると思うのです。
そして私自身、そうした未来の世界に向けては、「ひとつの絶対的な正義」があって然るべきだと考えますし、それは今日時点において、私のなかに確固として存在しているように感じています。この「ひとつの絶対的な正義」は、現在から未来に向けた時間軸において、現存する無数の「小さな正義」を統合していくかたちで成長していくでしょう。
ただし一点、逆説的ではありますが、そうした「ひとつの絶対的な正義」は、「ひとつの絶対的な悪」のように振る舞う側面もあると思われます。それは、未来に向けて流れていく時間のなかで、現存する無数に散らばった「小さな正義」を「ひとつの絶対的な正義」に育てるという悪ならではの役割を果たしていくということでもあります。
そうした意味で、「ひとつの絶対的な正義」とは、「ひとつの絶対的な悪」でもあり、次の時代においては、成長した異なる「もうひとつの絶対的な正義」に倒されることで、はじめてその役割を終える、使命を果たすことができるのではないかと考えます。
私は、これまでの世界は、このように正義と悪が交錯しながら成立してきたのではないかと思っています。またそれらは、単に交錯を繰り返してきただけでなく、交錯を通じて、互いが互いを高め合い、その度に成長をしてきたのだろうと思うのです(「カオス世界の読み取り方」参照)。
これからの時代において、その成長する規模が地球だけに留まらず、宇宙までをも包含した世界観にまで発展していくであろうという意味で、私自身、大変面白いのではないかと考えています(「実践への誓い」、「大きな矛盾を抱えるべし」参照)。
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