「マネジメント信仰が会社を滅ぼす」 深田和範・著、新潮選書401、2010年12月20日
p.5 マネジメント本に書いてあった理論や手法に逃げて、ビジネスの現実を直視しなかったのである。
p.6 ビジネスにかける経営者達の「意志」がないのだ。日本企業は、マネジメントの理論や手法にこだわりすぎて、ビジネスを進めるうえで最も大切な意志を喪失してしまった。
p.7 世界観や哲学を持たない企業経営の理論や手法は、単なる「金儲けのための道具」にすぎず、それを広めたところで「金の亡者」が増えるだけだからである。
p.21 あくまでも、ビジネスが「本質」や「中身」であって、マネジメントは「やり方」や「スタイル」にすぎない。そういう意味では、ビジネスが「主」で、マネジメントが「従」という位置づけになる。
p.21 ところが最近、この主従の関係が逆転している。
マネジメントによってビジネスが抱える問題を解決できるという「マネジメント信仰」を持つ人が多くなり、マネジメントが主で、ビジネスが従のように扱われている企業が増えてきた。実際に、営業や製造等の現場の第一線でビジネスを行っている人よりも、経営企画や人事等、本部でマネジメントを行っている、いわゆるホワイトカラーのほうが権力を持ち、経営の主役気取りで社内を闊歩している姿をよく見るようになった。
p.29-30 実は、経営者や管理職にしてみれば、意志を示すよりも意見を言っているほうが楽である。意志は個人の考えを示すものであるから、失敗した場合には、それを示した本人が責任を追及される。一方、意見は客観的、建前論的なものであるから、失敗した場合でも、よほどのことがない限り、個人の責任は追及されない。つまり、意志を示すよりも無難な意見を述べているほうが、自分の立場や地位を守るためには都合が良いのだ。
p.31 自らの意見を示さず、責任を回避しながら物事を進めることができるから、経営者達は「真似ジメント」に頼りがちになる。しかし、当然のことながら、意志を示すべき者が最初から逃げ腰になっている策などうまくいくはずがない。したがって「真似ジメント」は、ほとんどの場合、失敗してしまう。何かに失敗すると、意志を示すことに自信が持てなくなり、ますます他社事例に頼るようになる。こういうことを繰り返しているうちに、自分の意志をまったく示さない(示せない)ようになる。
p.43 とくに、マネジメント信仰が強い人ほど、「理論で何でも解決できる」と過信し、あるいは「ある手法を導入すれば問題解決ができる」と思い込み、都合のよいことばかりを考えてしまう傾向がある。
p.57-8 ビジネスを効率的に、あるいは安全に進めるためにマネジメントが行われる。しかし、マネジメント信仰が強まると、それが暴走して、制度やシステムによる管理ばかりを行うようになり、ビジネスの障害となってしまう。
マネジメントが管理志向を強めると、社内の規程や業務マニュアルが増えていく。様々な届出から日常業務の進め方までルールで縛られるようになる。しかし、これらのルールを運営するマネジメント側は、何か問題が発生したときに責任をとってくれるわけではない。
p.67-8 これら(近年ベストセラーになっているマネジメント)の本には、経営理念の徹底やシステム・制度の導入等によって、会社を変革したという内容のものが多い。これを真に受けて「社内の仕組みを変えれば会社は変えられる」と思い込み、「内向き志向」を強めている経営者や管理者が増えている。
ビジネスでは、基本的に顧客という「相手」が必ず存在する。したがって、ビジネスを意識しているうちは、「内向き志向」に陥ることはない。ところが、マネジメント信仰を持つ者は、「社内の管理こそがマネジメント」と思い込み、社内ばかりに目を向けるようになる。そして、いつのまにか顧客や社会の存在を軽視してしまい、それが引き金となって企業不祥事や長期的な業績低迷などの問題を引き起こす。
p.73 マネジメントが強化されると、経営者も社員も社内のことばかりに目が向いて、社外に向けて新しいビジネスを行おうという意欲が薄れていく。そのうちにマネジメントが強化された状態に適応した「優等生的」な人材が社内で優遇されるようになり、社外の顧客にしっかりと目を向けてビジネスを行おうとする「起業家的」な人材はあまり評価されなくなる。
しかし会社は、顧客や社外に価値を提供し、そこから評価されることによって、はじめて存在が認められるものだ。マネジメントを強化して組織を固めたからといって継続できるというわけではない。したがって、顧客よりも組織を重視する組織、ビジネスよりマネジメントを重視する会社は、いつか社外から評価されなくなり、存続の危機に見舞われることになる。
p.81 経営者や管理者が、マネジメント信仰を強めると、消去法でしか物事を決められなくなり、社内の意志決定のスピードは遅くなる。しかもリスクが少ない、ありきたりな案しか採用されなくなってしまう。こうなると、会社が危機的な状況に陥っていたても大胆な改革ができなくなり、ずるずると業績不振を続けてしまう。
p.85-6 マネジメント信仰が広がることによって、経営者や社員は顧客よりも組織に目が向くようになった。この状態が継続すると、組織・会社のためには、顧客・社会を欺いたり犠牲にしたりするのも仕方ないよいう極端な考え方が出てくる。そして、この発想が行き過ぎると、いわゆる企業不祥事が発生する。
不祥事を起こした会社がブランドイメージを崩壊させ、業績を悪化させる様子を見て、日本中の会社が「コンプライアンス」や「リスク管理」を強化した。
皮肉なことに、社内のマネジメントを強化すればするほど、経営者や社員は、社内・組織に対する意識を強め、「顧客や社会のために」という感覚を失う。こうなると、ますます不祥事を起こしやすい状態になってしまう。
p.88-9 マネジメント手法を運用する社員とそれ以外の社員との間では、これらの仕事の必要性について大きな意識の差がある。品質や情報のマネジメントを行う中高齢社員は、自分の仕事の必要性が高いと思い、それを徹底的に行おうとする。一方、それ以外の社員は、品質や情報管理を煩わしいものと想い、これらに関する諸手続きを簡単に済ませたいと思っている。そこで、マネジメントをする側は「当社の社員は品質や情報を管理する意識が弱い」と想い、品質や情報を管理するためのシステムをさらに強化していこうとする。マネジメントが複雑化し、コスト体質が悪くなるので、ビジネスはどんどんやりにくくなっていく。
p.90 品質管理も、環境に対する配慮も、本来は社員一人ひとりの意識の問題であって、それが高まらないことには根本的な解決にはならない。ただ全社員の意識を高めることが難しいので、規制やチェックを行うことによって、それらの管理を徹底しようとする。しかし、意識を変えないままにマネジメントを厳しくしたところで、社員はルールやチェックの抜け道を使ってしまうため、かえって問題を深刻なものにする。
p.92 マネジメントが強化されて、社内のことばかりに意識を向けさせられると、社員は顧客・市場との接点を見失ってしまう。そうなると、自分の仕事に対して社会的な意味や目的が感じられなくなり、やりがいを喪失してしまう。ただ会社のために仕事をしているような感覚になり、しかもマネジメント強化によって仕事が厳しく管理されていくので、最終的には仕事をすることも会社に行くこともイヤになってくる。マネジメントが強化された会社では、うつ病に陥る社員が増えてくる。
p.93 うつ病を防ごうとするのであれば、マネジメントを強化して社員の仕事の進め方や労働時間を管理するのではなく、むしろマネジメントを弱めて、社員に主体的なビジネスをさせることが必要である。
p.106 もともと私達は、経験・勘・度胸を伸ばすような教育というものを受けてきてはいない。今の教育では、決められたルールに基づいて正解を効率的に導き出すことが重視されている。様々な経験を繰り返して、勘と度胸を身につけることは奨励されていない。
この問題を解決するためには、普段から意識して経験・勘・度胸を強化していくしかない。つまり、仕事や生活の中で、勘・度胸を伸ばすような経験を積み上げていくのである。
p.117-8 新ビジネスのリスクを小さくする方法は、「自分がやりたいビジネスを実行する」ということである。自分のやりたいビジネスが、成功する可能性が最も高いからではない。失敗したときに、「ダメだったけど、自分がやりたいことを試すことができた」というあきらめがついて、再スタートを切りやすいからである。
p.123 経営者も、管理職も、監督になるより審判をしているほうが楽である。審判であれば、自分の意志や戦術を示さずに、会社が決めた方針や人事考課制度のとおりに部下をマネジメントしていればよい。組織目標が達成できなくても責任を厳しく問われることもない。「人事考課は会社が決めた仕組みだから従わざるをえない」という言い訳をして、定められたルールや基準を適用する審判の役割を自ら進んで引き受けていれば、自分の身は安全なのだ。経営者や管理職がこういう状態であっては、日本企業は、いつまでたっても復活しない。
p.125-6 知識や能力なんて、室長になればいやでも身につく。大事なことは、室長に向いているかどうかだけだ。それを見極めるのが社長の仕事だ。こういうことは、基準で決めることではなくて、経験とか勘がものをいう。
逆に、『こういう知識や能力を備えた人を室長にしましょう』なんて基準を作られたりしたら、私にしてみれば迷惑だ。そんなもので室長を選んでいたら、きっと会社はおかしくなる。
p.127-8 なぜ、日本企業において、ビジネスよりもマネジメントのほうが高い立場になっているのであろうか。
答えは簡単である。社員の処遇を決めいているのが、ビジネスではなくマネジメントをする側の人間だからである。彼らは、マネジメントがうまく機能しなければ、ビジネスは回らないと考えている。だから、経営においてもマネジメントが重要であり、ビジネスをする者よりも地位や報酬が高く設定されている。
p.132 社員が生み出す価値を、将来見込めるものも含めて、会社が独り占めしようとするから、「起業家を育成しても無駄」という話になる。しかし、企業するぐらいの人材を育てられない会社は、「組織の中でしか通用しない社員を多く抱え込む状態」になっているということでもある。こうなると、その会社は「管理はするけど無責任」という傾向が出てきたり、「顧客よりも組織を重視する」傾向が出てきたりして、衰弱していくのである。
p.149 多くの人が「他人のモチベーションをコントロールできる手法が存在する」と信じこもうとしている。
マネジメントも信仰も同じことだ。企業の業績を確実に向上させるマネジメント理論や手法など存在しない。マネジメント理論や手法自体は、どこかの会社で成功した事例に基づくものかもしれないが、それがあらゆる会社に通用するとは限らない。セミナーやマネジメント本で紹介されてりう理論や手法を真似したところで、成功するとは限らない。
p.151 会社や自分を変えたいのであれば、自分の意志に基づいて、自分の行動を主体的に選択することが必要である。マネジメント本に紹介されている理論や方法を真似している場合ではない。ときにはリスクを冒して新しいことに挑戦しなければ、何一つ変わることはないのだ。
p.153 試合の最後の方で、コーチは子供達に「もういい。お前達の自由にしろ。自分で考えて何とかしろ」と怒鳴った。「自由にしろ」と言われても、子供達は「自分達が何をしたいのか」とは考えない。「コーチが自分達に何をさせたいのか」ということを必死に考えてりう。その挙句、ますます自分の意志で動けなくなってしまう。「自分達で考えろ」「自由にしろ」と言いながら、結局、「上の人の考えるとおりにしろ」という強制になっている。これでは、いつまでも子供は自分の意志を持つようにはならない。
p.155 ミスを避けるためには何もしないでいることが最もよい。しかし、何もしないわけにはいかないので、責任を追及されないようにしながら、重要なことをしているように見せかけようとする。そうして、意志を示さずに建前論的な意見を述べたり、部下の仕事の管理だけを行ったりするようになる。こうしているうちに、リスクを冒して新ビジネスに挑戦する者が、めっきり少なくなた。「マネジメント」にうつつを抜かしているうちに、「ビジネス」がボロボロに崩壊してしまった。
マネジメントに頼ってきた経営者は、研ぎ澄まされた勘も、先を見通すことに役立つ経験も、今だと踏み切る度胸もないのではないだろうか。
★★★★★
p.5 マネジメント本に書いてあった理論や手法に逃げて、ビジネスの現実を直視しなかったのである。
p.6 ビジネスにかける経営者達の「意志」がないのだ。日本企業は、マネジメントの理論や手法にこだわりすぎて、ビジネスを進めるうえで最も大切な意志を喪失してしまった。
p.7 世界観や哲学を持たない企業経営の理論や手法は、単なる「金儲けのための道具」にすぎず、それを広めたところで「金の亡者」が増えるだけだからである。
p.21 あくまでも、ビジネスが「本質」や「中身」であって、マネジメントは「やり方」や「スタイル」にすぎない。そういう意味では、ビジネスが「主」で、マネジメントが「従」という位置づけになる。
p.21 ところが最近、この主従の関係が逆転している。
マネジメントによってビジネスが抱える問題を解決できるという「マネジメント信仰」を持つ人が多くなり、マネジメントが主で、ビジネスが従のように扱われている企業が増えてきた。実際に、営業や製造等の現場の第一線でビジネスを行っている人よりも、経営企画や人事等、本部でマネジメントを行っている、いわゆるホワイトカラーのほうが権力を持ち、経営の主役気取りで社内を闊歩している姿をよく見るようになった。
p.29-30 実は、経営者や管理職にしてみれば、意志を示すよりも意見を言っているほうが楽である。意志は個人の考えを示すものであるから、失敗した場合には、それを示した本人が責任を追及される。一方、意見は客観的、建前論的なものであるから、失敗した場合でも、よほどのことがない限り、個人の責任は追及されない。つまり、意志を示すよりも無難な意見を述べているほうが、自分の立場や地位を守るためには都合が良いのだ。
p.31 自らの意見を示さず、責任を回避しながら物事を進めることができるから、経営者達は「真似ジメント」に頼りがちになる。しかし、当然のことながら、意志を示すべき者が最初から逃げ腰になっている策などうまくいくはずがない。したがって「真似ジメント」は、ほとんどの場合、失敗してしまう。何かに失敗すると、意志を示すことに自信が持てなくなり、ますます他社事例に頼るようになる。こういうことを繰り返しているうちに、自分の意志をまったく示さない(示せない)ようになる。
p.43 とくに、マネジメント信仰が強い人ほど、「理論で何でも解決できる」と過信し、あるいは「ある手法を導入すれば問題解決ができる」と思い込み、都合のよいことばかりを考えてしまう傾向がある。
p.57-8 ビジネスを効率的に、あるいは安全に進めるためにマネジメントが行われる。しかし、マネジメント信仰が強まると、それが暴走して、制度やシステムによる管理ばかりを行うようになり、ビジネスの障害となってしまう。
マネジメントが管理志向を強めると、社内の規程や業務マニュアルが増えていく。様々な届出から日常業務の進め方までルールで縛られるようになる。しかし、これらのルールを運営するマネジメント側は、何か問題が発生したときに責任をとってくれるわけではない。
p.67-8 これら(近年ベストセラーになっているマネジメント)の本には、経営理念の徹底やシステム・制度の導入等によって、会社を変革したという内容のものが多い。これを真に受けて「社内の仕組みを変えれば会社は変えられる」と思い込み、「内向き志向」を強めている経営者や管理者が増えている。
ビジネスでは、基本的に顧客という「相手」が必ず存在する。したがって、ビジネスを意識しているうちは、「内向き志向」に陥ることはない。ところが、マネジメント信仰を持つ者は、「社内の管理こそがマネジメント」と思い込み、社内ばかりに目を向けるようになる。そして、いつのまにか顧客や社会の存在を軽視してしまい、それが引き金となって企業不祥事や長期的な業績低迷などの問題を引き起こす。
p.73 マネジメントが強化されると、経営者も社員も社内のことばかりに目が向いて、社外に向けて新しいビジネスを行おうという意欲が薄れていく。そのうちにマネジメントが強化された状態に適応した「優等生的」な人材が社内で優遇されるようになり、社外の顧客にしっかりと目を向けてビジネスを行おうとする「起業家的」な人材はあまり評価されなくなる。
しかし会社は、顧客や社外に価値を提供し、そこから評価されることによって、はじめて存在が認められるものだ。マネジメントを強化して組織を固めたからといって継続できるというわけではない。したがって、顧客よりも組織を重視する組織、ビジネスよりマネジメントを重視する会社は、いつか社外から評価されなくなり、存続の危機に見舞われることになる。
p.81 経営者や管理者が、マネジメント信仰を強めると、消去法でしか物事を決められなくなり、社内の意志決定のスピードは遅くなる。しかもリスクが少ない、ありきたりな案しか採用されなくなってしまう。こうなると、会社が危機的な状況に陥っていたても大胆な改革ができなくなり、ずるずると業績不振を続けてしまう。
p.85-6 マネジメント信仰が広がることによって、経営者や社員は顧客よりも組織に目が向くようになった。この状態が継続すると、組織・会社のためには、顧客・社会を欺いたり犠牲にしたりするのも仕方ないよいう極端な考え方が出てくる。そして、この発想が行き過ぎると、いわゆる企業不祥事が発生する。
不祥事を起こした会社がブランドイメージを崩壊させ、業績を悪化させる様子を見て、日本中の会社が「コンプライアンス」や「リスク管理」を強化した。
皮肉なことに、社内のマネジメントを強化すればするほど、経営者や社員は、社内・組織に対する意識を強め、「顧客や社会のために」という感覚を失う。こうなると、ますます不祥事を起こしやすい状態になってしまう。
p.88-9 マネジメント手法を運用する社員とそれ以外の社員との間では、これらの仕事の必要性について大きな意識の差がある。品質や情報のマネジメントを行う中高齢社員は、自分の仕事の必要性が高いと思い、それを徹底的に行おうとする。一方、それ以外の社員は、品質や情報管理を煩わしいものと想い、これらに関する諸手続きを簡単に済ませたいと思っている。そこで、マネジメントをする側は「当社の社員は品質や情報を管理する意識が弱い」と想い、品質や情報を管理するためのシステムをさらに強化していこうとする。マネジメントが複雑化し、コスト体質が悪くなるので、ビジネスはどんどんやりにくくなっていく。
p.90 品質管理も、環境に対する配慮も、本来は社員一人ひとりの意識の問題であって、それが高まらないことには根本的な解決にはならない。ただ全社員の意識を高めることが難しいので、規制やチェックを行うことによって、それらの管理を徹底しようとする。しかし、意識を変えないままにマネジメントを厳しくしたところで、社員はルールやチェックの抜け道を使ってしまうため、かえって問題を深刻なものにする。
p.92 マネジメントが強化されて、社内のことばかりに意識を向けさせられると、社員は顧客・市場との接点を見失ってしまう。そうなると、自分の仕事に対して社会的な意味や目的が感じられなくなり、やりがいを喪失してしまう。ただ会社のために仕事をしているような感覚になり、しかもマネジメント強化によって仕事が厳しく管理されていくので、最終的には仕事をすることも会社に行くこともイヤになってくる。マネジメントが強化された会社では、うつ病に陥る社員が増えてくる。
p.93 うつ病を防ごうとするのであれば、マネジメントを強化して社員の仕事の進め方や労働時間を管理するのではなく、むしろマネジメントを弱めて、社員に主体的なビジネスをさせることが必要である。
p.106 もともと私達は、経験・勘・度胸を伸ばすような教育というものを受けてきてはいない。今の教育では、決められたルールに基づいて正解を効率的に導き出すことが重視されている。様々な経験を繰り返して、勘と度胸を身につけることは奨励されていない。
この問題を解決するためには、普段から意識して経験・勘・度胸を強化していくしかない。つまり、仕事や生活の中で、勘・度胸を伸ばすような経験を積み上げていくのである。
p.117-8 新ビジネスのリスクを小さくする方法は、「自分がやりたいビジネスを実行する」ということである。自分のやりたいビジネスが、成功する可能性が最も高いからではない。失敗したときに、「ダメだったけど、自分がやりたいことを試すことができた」というあきらめがついて、再スタートを切りやすいからである。
p.123 経営者も、管理職も、監督になるより審判をしているほうが楽である。審判であれば、自分の意志や戦術を示さずに、会社が決めた方針や人事考課制度のとおりに部下をマネジメントしていればよい。組織目標が達成できなくても責任を厳しく問われることもない。「人事考課は会社が決めた仕組みだから従わざるをえない」という言い訳をして、定められたルールや基準を適用する審判の役割を自ら進んで引き受けていれば、自分の身は安全なのだ。経営者や管理職がこういう状態であっては、日本企業は、いつまでたっても復活しない。
p.125-6 知識や能力なんて、室長になればいやでも身につく。大事なことは、室長に向いているかどうかだけだ。それを見極めるのが社長の仕事だ。こういうことは、基準で決めることではなくて、経験とか勘がものをいう。
逆に、『こういう知識や能力を備えた人を室長にしましょう』なんて基準を作られたりしたら、私にしてみれば迷惑だ。そんなもので室長を選んでいたら、きっと会社はおかしくなる。
p.127-8 なぜ、日本企業において、ビジネスよりもマネジメントのほうが高い立場になっているのであろうか。
答えは簡単である。社員の処遇を決めいているのが、ビジネスではなくマネジメントをする側の人間だからである。彼らは、マネジメントがうまく機能しなければ、ビジネスは回らないと考えている。だから、経営においてもマネジメントが重要であり、ビジネスをする者よりも地位や報酬が高く設定されている。
p.132 社員が生み出す価値を、将来見込めるものも含めて、会社が独り占めしようとするから、「起業家を育成しても無駄」という話になる。しかし、企業するぐらいの人材を育てられない会社は、「組織の中でしか通用しない社員を多く抱え込む状態」になっているということでもある。こうなると、その会社は「管理はするけど無責任」という傾向が出てきたり、「顧客よりも組織を重視する」傾向が出てきたりして、衰弱していくのである。
p.149 多くの人が「他人のモチベーションをコントロールできる手法が存在する」と信じこもうとしている。
マネジメントも信仰も同じことだ。企業の業績を確実に向上させるマネジメント理論や手法など存在しない。マネジメント理論や手法自体は、どこかの会社で成功した事例に基づくものかもしれないが、それがあらゆる会社に通用するとは限らない。セミナーやマネジメント本で紹介されてりう理論や手法を真似したところで、成功するとは限らない。
p.151 会社や自分を変えたいのであれば、自分の意志に基づいて、自分の行動を主体的に選択することが必要である。マネジメント本に紹介されている理論や方法を真似している場合ではない。ときにはリスクを冒して新しいことに挑戦しなければ、何一つ変わることはないのだ。
p.153 試合の最後の方で、コーチは子供達に「もういい。お前達の自由にしろ。自分で考えて何とかしろ」と怒鳴った。「自由にしろ」と言われても、子供達は「自分達が何をしたいのか」とは考えない。「コーチが自分達に何をさせたいのか」ということを必死に考えてりう。その挙句、ますます自分の意志で動けなくなってしまう。「自分達で考えろ」「自由にしろ」と言いながら、結局、「上の人の考えるとおりにしろ」という強制になっている。これでは、いつまでも子供は自分の意志を持つようにはならない。
p.155 ミスを避けるためには何もしないでいることが最もよい。しかし、何もしないわけにはいかないので、責任を追及されないようにしながら、重要なことをしているように見せかけようとする。そうして、意志を示さずに建前論的な意見を述べたり、部下の仕事の管理だけを行ったりするようになる。こうしているうちに、リスクを冒して新ビジネスに挑戦する者が、めっきり少なくなた。「マネジメント」にうつつを抜かしているうちに、「ビジネス」がボロボロに崩壊してしまった。
マネジメントに頼ってきた経営者は、研ぎ澄まされた勘も、先を見通すことに役立つ経験も、今だと踏み切る度胸もないのではないだろうか。
★★★★★
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます