言語は「勘違い」から生まれたのだと思う。一番最初に言葉を放った人の言葉を聞いた人が、それを勘違いして解釈し、その解釈をその言葉の本来的意味と思い込んで使用して行くうちに、その勘違いの連鎖的集積が、その言葉が意味するものに何となくなって言ったのではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年3月13日 - 09:04
この言語は「勘違い」から生まれたという仮説は、経済のファンダメンタルズとフロー経済の関係に似ている。フロー経済はもはや貨幣の兌換価値に依存していないけれど、それは貨幣の流通にある種の「勘違い」が内包されているからであり、だからこそ流通するのではないか。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年3月13日 - 09:06
昨日、朝崎郁恵さんと一緒に映画「神の唄」第1章のナレーションを日本語からシマ口に訳していたのだけれど、「歴史」や「文化」「伝える」といった言葉がシマ口に存在せず、こういった概念の翻訳というのは中々難しいものだと感じた。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年3月13日 - 09:08
朝崎郁恵さんから、沖縄の歴史研究家から伺った話として、「首里城が薩摩に焼かれなかったのは、琉球王府が薩摩に奄美を差し出したからだ、沖縄の人は奄美の人に感謝しなきゃいけないと言っていた」と伺って、これじゃあ沖縄をアメリカに差し出して皇室を守った昭和天皇と同じじゃないか、と驚いた。
— Shinya Watanabe 渡辺真也 (@curatorshinya) 2018年3月13日 - 09:15
「書き換え」か「改ざん」かという質問に「書き換え」だと、堂々と答える政府に、どうして憲法の改正を任せることができるだろう。言葉を扱うことに誠意のかけらもない人々に、究極的には言葉に結実せざるを得ない憲法を、どうしてさわらせることができだろう。愚行を忘れずにいよう。それが出発点だ。
— 若松英輔 (@yomutokaku) 2018年3月12日 - 21:50