おとといの夜は、ホルヘさんとSan Juanより東側へとドライブして行った。椰子の木が生い茂る夜の海岸線をドライブしていくのは、非常に気持ちよかった。あまりにも星空と浜辺が綺麗なので、ちょっと車を止めてみよう、なんて海岸線に入っていったのが間違い。タイヤが砂にはまってしまい、抜けなくなってしまった。俺は車から降りて一生懸命押してもタイヤが抜けない。そうこうしているうちに、警察が来てクレーンを呼んでくれるということになったのだが、そんな矢先、チェーンを持っているヒッピーの車が通りすがり、車を出すのを手伝ってくれた。プエルトリコ、困ったときは助けてくれるらしい。それにしても焦りまくっているホルヘには笑った。
その後、ドミニカ人の集まるバーで現地の料理を食べた。プエルトリコにはドミニカからの移民が多く、彼らはメレンゲ音楽が大音量で流れるバーに溜まっているのだ。
プエルトリコの一人当たりGNPはアメリカ本土の約半分だが、ドミニカはそれよりもずっと低い。そこで、ドミニカの貧困者がひと稼ぎしようと、ボートでプエルトリコへと違法入国して来るのだ。さらに、彼らのうちの多くが、プエルトリコで身分証明書を偽造し、アメリカに入国していると言う。そんな話をホルヘから聞いた後、お店の看板を見てみると、「プエルトリコに行こう!」と描かれた海賊船をモチーフにした看板で、ちょっと笑う。
最終日はツアーに参加して、ユンケと呼ばれる熱帯雨林のジャングルへと行ってくる。ジャングルへと行ったのは、マレーシアのタマヌガラ以来なので、久しぶり。スコールの降る中、ジャングルを散策する。気温が暑い為か、雨はそれほど気にならない。工程の中腹にある滝つぼで泳いだのが大変気持ちよかった。
今回の旅で印象的だったのは、何といってもカリブ海に残る植民地主義の爪痕に他ならない。スペイン人の渡来から奴隷貿易、米西戦争後のアメリカによる支配、第二次大戦後、そしてキューバ革命後のプエルトリコの状況は、全てスペイン人の渡来から始める。ちなみに先ほど私が述べたドミニカ人の集まるバーは貧民街に属しており、そこは元々奴隷貿易の市場の跡地であった。そんなリアルな経験が、歴史と私の経験の距離を縮める。国民の過半数がアメリカの州になること、またはcommonwealthに留まること、または独立することに関しても「該当しない」と答えているのは、この3つの考え方そのものがヨーロッパ近代の延長線上にある考えである事に国民が気付いたからではないだろうか。しかし、それを語る具体的な言葉を持っていないのが、プエルトリコの現状なのかもしれない。
と同時に、私はスペイン語すら話せない。その事実が、現地の人々と私の距離を開かせる。プエルトリコにおいて英語を話すことは、植民地主義の側に立つことになりかねない。しかし、私にはスペイン語を勉強する時間がなく、またこの為だけに勉強する訳にもいかない。申し訳なく思うのだが、英語という歴史のある種必然として成立してしまった共通言語に頼りがちな私にとって、身を裂かれる思いがする。と同時に、スペイン語を話した所で、やっぱり植民地主義者の側に立っているという事実は変わらない。最後は、自らがどう思い、そしてどう行動するかにかかっているとしか言い様がないのかもしれない。この問いだけは忘れないでいく事が重要だと思う。
その後、ドミニカ人の集まるバーで現地の料理を食べた。プエルトリコにはドミニカからの移民が多く、彼らはメレンゲ音楽が大音量で流れるバーに溜まっているのだ。
プエルトリコの一人当たりGNPはアメリカ本土の約半分だが、ドミニカはそれよりもずっと低い。そこで、ドミニカの貧困者がひと稼ぎしようと、ボートでプエルトリコへと違法入国して来るのだ。さらに、彼らのうちの多くが、プエルトリコで身分証明書を偽造し、アメリカに入国していると言う。そんな話をホルヘから聞いた後、お店の看板を見てみると、「プエルトリコに行こう!」と描かれた海賊船をモチーフにした看板で、ちょっと笑う。
最終日はツアーに参加して、ユンケと呼ばれる熱帯雨林のジャングルへと行ってくる。ジャングルへと行ったのは、マレーシアのタマヌガラ以来なので、久しぶり。スコールの降る中、ジャングルを散策する。気温が暑い為か、雨はそれほど気にならない。工程の中腹にある滝つぼで泳いだのが大変気持ちよかった。
今回の旅で印象的だったのは、何といってもカリブ海に残る植民地主義の爪痕に他ならない。スペイン人の渡来から奴隷貿易、米西戦争後のアメリカによる支配、第二次大戦後、そしてキューバ革命後のプエルトリコの状況は、全てスペイン人の渡来から始める。ちなみに先ほど私が述べたドミニカ人の集まるバーは貧民街に属しており、そこは元々奴隷貿易の市場の跡地であった。そんなリアルな経験が、歴史と私の経験の距離を縮める。国民の過半数がアメリカの州になること、またはcommonwealthに留まること、または独立することに関しても「該当しない」と答えているのは、この3つの考え方そのものがヨーロッパ近代の延長線上にある考えである事に国民が気付いたからではないだろうか。しかし、それを語る具体的な言葉を持っていないのが、プエルトリコの現状なのかもしれない。
と同時に、私はスペイン語すら話せない。その事実が、現地の人々と私の距離を開かせる。プエルトリコにおいて英語を話すことは、植民地主義の側に立つことになりかねない。しかし、私にはスペイン語を勉強する時間がなく、またこの為だけに勉強する訳にもいかない。申し訳なく思うのだが、英語という歴史のある種必然として成立してしまった共通言語に頼りがちな私にとって、身を裂かれる思いがする。と同時に、スペイン語を話した所で、やっぱり植民地主義者の側に立っているという事実は変わらない。最後は、自らがどう思い、そしてどう行動するかにかかっているとしか言い様がないのかもしれない。この問いだけは忘れないでいく事が重要だと思う。