穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

38:タマシイは死後も統一体であるか、長南さんの下した結論

2019-11-02 11:10:18 | 破片

  若く美しい女性哲学学徒である長南さんは珍しく静かにしていた。なにか思いつめたような表情をしていたが、突然何かがひらめいたかのように叫んだ。

「タマシイ(魂)という字の偏を土にかえるとカタマリ(塊)という字になるわけだわ」

下駄顔がびっくりして彼女を見た。「本当だ、それで」と聞いた。

 「つまり死ぬと土くれのかたまりになるわけじゃないの!」

「なるほど、大発見だ」と禿頭老人は訳が分からないまますぐに何時もの通り美女の云うことに同意した。

「それで?」とクルーケースの男がきいた。

「つまり、死んでも魂は塊のままであることじゃないの」

「ふむ、面白い」と橘さんは思案顔に言った。「少なくとも漢字作者はそう思っていたという解釈は出来そうだ」

長南さんはびっくりして橘さんを見た。「漢字作者というと?」

「古代シナ人でしょうな」

 「漢字というのは分解してみると面白いね」と第九は割り込んだ。「たとえば魂という字の旁はオニという字だ。これをどう解釈しますか、橘さん」

突然話題をふられた彼はすぐには返答しなかったが、たちまちこのトンチ問答に回答を見つけた。「オニとはなにか、民俗学者や哲学者、言語学者それぞれに解釈があるだろうが、これは『動物的精神』ということではないかな。そういう解釈もできそうだ」

「なるほど、それで偏の云うはどういう意味を付与しますか」と第九が畳みかけて聞いた。

 「そこですよ、『いう』ということは人間だけが出来る。動物的精神(あるいは生気)に人間の知性が付与されたとかね」

下駄顔が感嘆したようにうなった。

「言うという人間の脳活動は古代ギリシャの哲学者風にいえばロゴスに通じる。つまり論理的活動とか知性という意味があるだろう。つまり動物的生気に人間的知性が上乗せされたものということになる」

「うまい!」と叫んだのは卵型禿頭老人であった。長南さんがこの説を反芻咀嚼するには時間がかかりそうであった。哲学徒であるだけに慎重に吟味しているようであった。