文学の「好む」病気というのは時代を反映する。ドラッグ中毒なんてのは現代風だ。もっとも麻薬がらみの小説は昔からあるが。うつ病とか引きこもりなんてのも現代風かな。比較的時代を問わないのには精神病(質)なんてのがある。
二十世紀中葉まででいうなら間違いなくベストテンに入るのは肺結核だろう。別に根絶された病気ではないが、現代の日本や欧米では小説の主人公としてはそれほどポピュラーではない。治療薬もあるし、予防策も完備?している。しかし一昔前までなら肺結核文学は一大ジャンルであった。
不治の病とされたが病状の進行は緩慢である(例外はある)。微熱があり、顔は赤みを帯び一見健康そうに見える。熱があるから瞳には潤いがある。意識は最終段階まで変わりがない。結核菌は性欲中枢を刺激するものらしい。これは小筆の見聞した場合でも例外がない。どうしてだろう。不思議である。異性の看病から恋愛は定番である。ということで結核文学は多かった。
ところで、唐突だが歴代のノーベル文学賞受賞者の作品でももちろん結核が重要な骨組みとなっている小説がある。トーマス・マンの「魔の山」もそうである。たしか彼は1929年の受賞者でこの小説が書かれたのは二十世紀初頭だろう。長い小説で途中で読むのをあきらめたが。
アンドレ・ジッド(ジイド)の「背徳者」もそうである。最近ようやくの思いで読み切ったので少し触れたい。彼は自伝的作品が多い。これも二十世紀初頭の作品である。彼は1947年にノーベル賞を受賞している。彼の作品の女性は主人公の男性が、その前に跪拝すれども触れずというタイプが多い。ジッド自身もそうであったらしい。肉体的欲望は同性愛と娼婦でまかなっていたらしい。作品においても実生活においても。
さて主人公は幼馴染の女性と結婚してきわめてプラトニックな結婚生活を送る(やかましい読者のためにいうと一回だけ情交があって妻を懐妊させる。その胎児は流産する)。新婚旅行に北アフリカに行く。ここで彼は結核を発症し、喀血する。しかし、アラブ人(ムーア人?)の美少年たちに囲まれているうちに健康を回復する。今度は看病していた夫人が感染する。彼女の病状は彼と違い不可逆的に進行する。
ジッド自身は結核にかからなかったのか、あるいは知識が全然なかったらしい。夫人の病状ならサナトリウムにいれて絶対安静にすべきところを二度目のアフリカ、イタリア旅行に連れまわす。各地に二、三日滞在すると暑いの寒いの、湿気があるなどと苦情を言って移動する。これほど結核患者に負担をかけるものはない。まるで殺しにかかっているようなものである。
作品の出来栄えはどうか。取り立てて言うほどのものではなかった。ちなみにローマ法王庁は彼の作品を禁書にした。当然といえば当然である。