穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

63:テープは巻き戻された

2021-05-19 08:06:24 | 小説みたいなもの

 彼は時空を飛翔しながら記憶が猛烈なスピードで巻き戻されたのを感じた。巻き戻すというのは二十世紀のテープレコーダー時代の表現だな、と彼は時間の谷間で自笑し苦笑をもらした。CDならナノ秒のあいだにひょいと最初から再生される。

 最初は真っ暗闇の中にいた。耳の周りでドクドクと血液が流れるような音が聞こえだした。そのうちに彼を覆っている肉ひだのような袋の外側から男の声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。誰だったかな、と考えているとものすごい刺激が電気のように体中に奔った。そのたびに冬のコートのように彼を覆っている膜が強く収縮して彼を呼吸ができないほど締め付けた。静寂。しばしの静寂。肉襞が緩衣のようにゆるんでほっと息をつく。と、また荒々しい別の男の声、肉襞の収縮。強い刺激臭の充満が始まる。

 彼は今度は薄暗い部屋に寝かされていた。と、いきなり小学校の入学式らしい。広い講堂に深紅の厚い緞帳がめぐらせてある。誰かが演説をしている。そのうちに映画が始まった。新入生に向けて交通事故の注意を喚起している映画らしい。いまから考えると警察が小学生向けに作った簡単な交通安全をPRする映画だったのだろうが、その映画を見て彼は生まれて初めて恐怖と言うものを「自覚」した。

 今度は防風林を抜けて色とりどりの花々が小川の土手に咲き競う楽園のような田園に飛び出す。どうも田舎に行ったらしい。とにかく記憶と呼べるかどうか鮮明な表彰が、飛ぶように無数に流れ去る。それらの画面は彼の記憶にこれまでの人生で一度も再生されなかったものであった。そのうちに、ようやく彼の記憶にある学生時代やら社会に出てからの場面が再生され始めた。しかも彼が全く考えたことも無かったというか、思いつかなかった「ものがたり」の裏面を開示しながら。これは大いに参考になる。

 ドスンというハードランディングの衝撃で彼は我に返った。周りを見回すと、どうも旅行(タイムトラベル)に出発したビルの屋上らしい。不可視化されたペガサスは出発時と同じように前足を折って姿勢を低くして、彼が下馬しやすいように配慮している。しかしペガサスの姿は見えない。そうか馬も又虚体化しているのだな。かれが下馬すると任務を果たしたペガサスは天空に駆け上がった。見えたわけではない。一陣のつむじ風が巻き起こって乗馬が天空に消えた航跡を残したからである。

すこし離れたところから「やあ、おかえりなさい」と声がかかった。明智大五郎だった。

「御無事で」

何を言いやがる、無事に帰ってくるという確信もなくて客を送り出したのか、と殿下は腹がたった。実験動物のつもりでいやがる。

「どうかそこにある机の前のにある椅子にお座りください」

見ると明智は机の先数メートルのところに立っていた。

「そして、机の上にある赤い帽子を被ってください。まだこちらからはそちらの姿が見えないのでぶつかるといけませんから目印になります」

 殿下は椅子に座ると赤い野球帽を取り上げて被った。すると彼も机の反対側に来て椅子に腰を下ろした。

「それでは、まずその赤いジュースを飲んでもらえますか」と机の上のコップを示した。

「これはなんですか」

「実体化促進剤です」

「害はないんでしょうな」と彼は念を押した。実験材料にされるのはこりごりだと警戒したのである。

「ええ」と明智は笑った。「だいぶ薄めてありますから。それだけ効果は緩慢かもしれない」

「どのくらいで効果は出るのです」

「計算では三十分から一時間と言うところでしょう」

なんだ、やっぱりこれを飲むのは俺がはじめてか」と思った。ネズミでは実験したのかもしれないが。彼は用心して一口飲んだ。

「妙に甘いな」

なんだかイチゴジュースに塩と唐辛子を混ぜたように味がした。

 


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