穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ポリフォニーとは

2013-05-28 09:39:45 | ドストエフスキー書評
今バフチンの「ドステエフスキーの創作の問題」平凡社をすこし読んでいる。例によって書店で手当り次第に買って、長いこと放っておいたものを書棚の整理のおりに開いてみたものだが。

これはジャーゴンの堆積だな。違うかな。有り難がる専門家がいると、オイラは形無しになるのだが。

全部読んだ訳ではない。とても読み続けられそうもない。最初の方にこれまでのドスト論について概観したところがある。といってもこの本が出版されたのが、1929年だからそれ以前というから随分古いものばかりだ。

23ページに書いてあることは分かる気がする。ドスト論を分類している。

# 主人公と一緒に夢中になって哲学に耽る類いのもの

# 主人公を客体化して非参与的に心理学的ないし精神病理学的に分析するもの

というんだが、私の印象もそんなところである。今でもこの二つのタイプが多い。この種の評論にわたしもあまり感心しない。バフチンの意見はまだよく分からないが、ドストの哲学的見識など、ま、今の言葉で言えば新書の知識レベルだし、心理学的云々はまったくナンセンスだとおもう。

当時はまだ精神分析学(商標特許、フロイト流)がこれからのしていこうという時代だろうが、いまでもさかんだ。カラマーゾフのテーマが父殺しなどという、的外れな議論が多い。

そこで、新案特許(ポリフォニー)が出てくる。これがよくわからない。まともに定義されたり、提起された箇所はまだみつからない(30ページあたりまで)。

読んでいるとドストの独創だというのだが、本当だろうか。こんな技法は古くから存在していたように思われる。
なかでも異様に感じたのはトルストイの作品は欧米型のモノローグだと言うのだが、バフチンがいっているポリフォニーという概念からすると、トルストイもポリフォニー作家だし、第一そうでなければ小説なんか成り立たないのではないか。

ごく一部の私小説みたいなものをのぞいて、新案特許(ポリフォニー)なしに小説なんて成り立つのか。



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