穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

アップデート要求39:天井がつかえるアリャアリャ殿下

2021-03-17 10:01:33 | 小説みたいなもの

 タイムトラベル中は麻酔をかけられたように意識を失う。それはそうだ、意識したままタイムトラベルでぶっ飛んでいけば錯乱して狂気にいたることは必定である。

 ドスンと頭を打ったので殿下は意識が戻った。見ると彼の体はクモのように天井に張り付いている。霊体化している彼に体重はない。質量ゼロである。つまり無重力状態であるから、宇宙飛行士のように空中を漂い天井にぶつかる。透明人間化しているといっても、ニュートリノ化している訳ではないので天井を透過するわけにもいかない。

 目を開けると眼下に白衣を着た女性がいる。その前に三十センチほどの高い段の上に据えられた椅子に若い男性が大股を開いて座っている。ズボンもパンツも着用していない。

 殿下はいつ自分の幽体が天井から離れて室内の空間を浮遊し始めるか不安にかられた。といっても経験のないことであるから無重力状態での浮遊技術など持っていない。明智大五郎もそこまで教育してくれなかった。彼の体はユラユラして今にも天井を離れそうになる。2人の間に落下したら大変だ。もっとも彼はまだ慣れていないのである。透明人間なのだから彼らの間に落ちても気付かれる恐れはないのだ。あるとすれば、何らかの気配を彼らが察するかどうかだ。人間は第六感が退化しているから大丈夫なはずだ。明智もそう説明しなかったか。室内に犬でもいたら吠えたてられるかもしれない。

 女性はコンドームを剝きとると、灯火つまり殿下の張り付いている天井のほうに透かしてみた。「わー、すごい。こぼれそうだわ」と言って中の白濁した流動体を容器に移すと部屋の隅にある洗面所で手を洗った。「10CCはあるわね」と言いながらデスクの前に座るとスポイドで吸い上げたものを顕微鏡の下に置いた。

「元気のいいこと」と嘆声を発し次に容量を測った。8.8CCね、と言って今度は別の検査機の中にセットした。数分後数値が赤い色で表示された。

「よし、甲種合格だわ」と言うと証明書にスタンプを押した。それを彼に渡すと「受付で手続きをしてください。来週の月曜日には五両二分が振り込まれます。おめでとう」というと彼を室外に送り出した。

  AD3000年にはかって売血があったように、精液を売ることがあるのか、それも目もくらむような高値で、と殿下は感慨に耽ったが、はっと我に返るとこの部屋から早く逃げないといけないと眼下の室内を見渡した。女医は椅子に座って報告書を書いている。ドアは閉まっている。窓のほうを見ると換気のためか大きく開いていた。彼は脱出を試みた。空中遊泳に慣れていないので体がコントロールできずに、あちこちにぶつかりながらようようの思いで窓外に漂い出たのである。彼女は異様な気配を感じたように目をあげて不審そうに、あちこち見ていたが彼は見えず、自分を納得させるように首を振っていた。

 

 



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