穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

金太郎飴

2022-07-28 07:52:05 | 西村賢太

 西村賢太の小説は「何処から読んでもいい金太郎飴」と総括したら失礼にあたるだろうか。全部の私小説作家の「ワタクシ小説」に該当するわけではないだろうが、わたくし小説と言うのは潤色した日記であるから、終わりからでも、途中からでも読んでいい。最初から読む必要はない。一般論ではね。
 そして何処から読んでも「同じ味がする」、どこから切っても同じ柄が出てくる金太郎飴と同じだ。これは特に西村賢太の場合に言える。
 西村の遺作となった「雨滴は続く」を読んでいる、今月初めから。全480ページの長編である。彼の小説を単行本で読むのは初めてである。これは彼の逝去により未完の遺作となったという。今月初めから読み始めて七月が終わろうとするのに、ようやく160頁だ。今回は最初から読んでいる。金太郎飴だから、一気呵成に読むのは無理だ。精力剤のようなどぎつい表現で叩きつけてくるから、読み続けると感覚が麻痺してしまう。退屈で神経が弛緩したようなときに元気を出すために読むと良い。
 修辞的に言うと、難しい言葉を使うね、大体ワンパターンだ。ジャズのドラムでガンガンやるのと同じで、演奏者はバリエーションをつけているつもりでも読むほうは区別がつかない。続けて読むと麻痺して退屈してしまう。忘れたころにまた本を広げるてチビチビ読むと精力剤的な効果がある。
 潤色した日記と書いたが、面白かったのは売り出し(デビュー)のころの雑誌の編集者とのやり取りだ。文芸雑誌と言うのは養鶏業者と同じで唾をつけた作家がコンスタントに売れる卵を産めるかどうか見極める作業がある。当たり前だ、出版社だって儲からなければ話にならない。出版社にとって都合のいい金(銀でも銅でもいいが、とにかく)のタマゴを経常的に産ませなければならない。その辺の見極めというか、探りと言うかリサーチと言うか編集担当者とのやり取りが面白い。こちらは斯界の事情に疎いのでね。西村賢太が例によって反発するところが面白い。もっとも実際を反映した記述ならば、ということだ。西村も古い話をよく覚えているね。


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