穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カフカのKと穴村の三四郎の場合

2016-10-12 08:05:21 | カフカ

ミラン・クンデラのエッセイ「小説の技法」(岩波文庫)の第五部は「その後ろのどこかに」である。これは三十ページ弱のカフカ論である。 

欧米でもカフカの小説は独裁体制とか官僚制度などの未来を予見したという説が主流らしい。日本のカフカ論は勿論これを踏襲している。クンデラはこの説を退ける。このブログで前に書いた様に人間社会で古今東西を通底する構造をカフカなりに切り取った作品だとはこの本を読む前に書いたが、クンデラのいう『その後ろのどこかに』も同様の意見である。

カフカの場合、最初の試みは「判決」という短編に現れ後に「審判」につながる。

彼の場合はボス(社会、父親、権力)に追求されて、Kはその訴追を正しい物として無批判に受け入れ、次になんとかして自分の罪(過失)は何だったのかと知ろうとする。必死に自分の過去を追求する。なんとかして自分を納得させたいのである。これは独裁者会、共産主義社会の自己批判にあたる。

クンデラは共産主義独裁体制のチェコからの亡命者であるが、かってのチェコでこの種の例を多数見ている。つまり当局や「お仲間」に追求されて必死に自分で自分の罪を見つけようとして躍起となる自己批判者の群れである。

かれらは自分の「罪」を見付ると安心して死刑になっていったそうである。そういう知識人がチェコには多数いた。戦後戦勝国やその追随者に操られる日本の「戦後民主主義者」が「自己批判する能力を権力者に認められてもらう最大の武器」と捉えるのもおなじメカニズムである。そういう連中が平成の御代にいまだに日本人の三割もいる。

しかし、カフカの場合は一例にすぎない。権力者に追求糾弾されてひたすら自己批判にはしるグループのほかに、それを機に権力者にすりよるグループも多い。転向者もそうだし、密告者に変身する連中も多い。わたしはこれを猿社会になぞらえてボス猿の毛繕いをする連中と名付けたい。こういう連中もまた多いのである。

穴村の「反復と忘却」のなかの三四郎は上記のいずれにも該当しない。理由の分からない、理由の開示されない非難に対してひたすら自分の中に閉じこもり沈黙する少数派グループである。もちろん「なぜ」という追求は密かに粘り強く続けられるのであるが。

 

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