穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

三島由紀夫「金閣寺」

2020-06-12 07:36:40 | 三島由紀夫

 忙しかったこともあって読むのに一週間ほどかかった。

経緯:
 本を読むのに経緯なんてあるのかという疑問はごもっともである。
さるところで三島がインタビューか対談で金閣寺執筆で森鴎外とトオマス・マンを参考にしたといったそうだ。そんなわけ毎日の一万歩稼ぎで大型書店を巡回中に、この本の前を通ったときに思い出して本棚なら引っこ抜いた。何時ものようにまず奥付を見る。142刷とある。合格である。あたらしい本が腐るほど毎日出版されるから、刷数を参考にしている。百刷以上なら一次試験は合格である。

 三島の作品で読んだ記憶があるのは「仮面の告白」である。大昔のことで内容の記憶、印象はほとんど残っていない。その後の作品は仮面の印象が薄かったので読んでいない。

登場人物:
 金閣寺放火犯の学僧が語り手である。彼に姓名があったっけ。とこれを書き出してふと気が着いた。再読確認すればあったのかもしれないが、思い出せないのである。

彼の学友が二人。
第一の友人は正常晴朗な青年である。かれには名前がついていたが思い出せない。瀬川だったかな。第二の友人が半纏足(びっこ?)の悪党で柏木という。これは印象に刻み付けられている。もちろんほかに金閣寺の老師、母親などが主要人物である。

 さて、主人公は生来のどもり(吃音者と言わなければいけないのかもしれない)である。かれが僧侶の父親によって、金閣寺に預けられて大谷大学に進学して、第一友人や柏木と交わるようになる。叙述は第一友人との交友まで、文章は滑らかである。

 柏木との交流が始まるようになると、にわかに韜晦気味となる。これが作者のいうトオマス・マンを参考にしたところであろうか。書中菊にまつわるミツバチの話が出てくるがこれなど、何を言っているのかわからない。

 また、この辺から(つまり柏木との交流が始まるあたり)から現在ではあまり見かけない漢語読みや漢語の引用が増えてくる。これが森鴎外を参考にしたということなのだろうか。

 舞台は禅宗の名刹内の話であり、三島は必ずしもその生活から、その内情に通じていたとも思えないが、よく下調べをしたと思わせるところがある。漢語表現についても間違っているところは無いのだろうが、しっくりとはまっていない。無理もない。彼の教育環境で漢文文化の影響を受けた痕跡は認められない(この項反対のご指摘があれば改めます)。

 これも禅宗寺院の生活の下調べを綿密に行ったのと同じく、この執筆のために勉強をしたということなのだろう。したがって、間違ってはいなくても、鴎外、漱石、荷風のように漢文と和文を融合させたような滋味雅味は感じられない。

 


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