穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

Don Ishiguro, donorという言葉を使ってはいけない

2018-02-01 07:08:01 | ノーベル文学賞

 「私を離さないで」第三部になります。

 さてコテージで二年ほど過ごすとクローン達はいよいよお役目を果たさなければならない。一般の社会でいえば就職するわけです。道は二つある。臓器提供者になるか、彼らの介護人になる。介護人はクローンがやるというところがイシグロ氏の趣向です。原文を見ると介護人はcarerとなっている。これは、まあ、よろしい。臓器提供者はdonorという言葉を使っているが、これはイシグロ氏らしくない。

 ドナーの語源はサンスクリット語のダーナである。恩恵的に与えるもの、金主(特に宗教寺院への寄進者)、スポンサーの意味である。与えるという意味のラテン語のdonもサンスクリット語からきていることは間違いない。

 この言葉は日本に渡来すると旦那という言葉になる。寺院への寄進者ということである。寺院を支える在家のスポンサーを檀家というのも同じ語源である。二号さんにお手当てを与えるものもダンナという、おなじ機能を果たしているからである。

 この与えるという機能は自発的に恩恵を与えるという場合に限られている。一般に臓器提供者をドナーというのは、彼ら本人が自発的に提供するか、家族が提供に同意する場合のみであるからドナーという言葉の使用法の限界を超えていない。しかし、本書の場合は自発的、恩恵的ではない。強制的、運命的である。正確に言えば「無償で強制的に臓器を提供させられる者」である。

 日本語でも訳者のように「提供者」と訳すのはドナーよりはましだが、正確に言えば「無償で本人の意思にかかわりなく強制的に臓器を摘出、提供させられるもの」である。英語でいうとどうなるのかな「free (of charge), obligatory supplier」かしら。つたない英訳で申し訳ない。昔の日本語で供出ということばが一番近いのかもしれない。この言葉を若干修飾するのがいいのかもしれない。現代日本でいえば、NHK視聴料の強制徴収を考えればわかりやすいかもしれない。

 贅言であるが、スペイン語のミスターにあたるドンもダンナという意味ではないか。「ドン イシグロ」といえば「イシグロの旦那」ということだろうか。

 次回は最後になると思います。(どうかな)

 

 


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