穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カントの道徳哲学 題名は体を表すか、Sittenは近似的にMoralsか?

2017-02-10 08:28:45 | カント

ドイツ語原題は GURNDLEGUNG ZUR METAPHYSIK 

DER SITTENというが、ある英訳ではこの最後のSITTENを

Moralsと訳している。ドイツ語にも英語と同じ意味でMoralという言葉がある。また同じ意味でEthikという言葉もあるのにSitten(Sitteの複数形)を選んだのには理由があるのか、という素朴な疑問を抱いたのである。 

ドイツ語辞書でsitteを見ると第一の語釈は慣習(英語ではcustoms)である。ひいては風習、慣行、慣例、個人の習慣的行為などを意味する。第二語釈に道徳、風紀とある。わたしはsittenを選んだのは意図的で名は体を表すというか、カントの思考からするとモラルよりぴったりと来るように思われる。

カントは該書で何回も民間の常識と哲学者がひねり出した道徳哲学の結論は同じになると繰り返している。そして該書のトーンは哲学では(つまり自分の論考では)世間で通用する常識に優る結果を打ち出したという自信を示すのを躊躇している。

カントの言葉を逆手にとれば道徳の実質というか内容をカテゴリカリーに提示するのは難しい。この書の最後の部分はカントの自信の無さが感じられる。このところを読んで(唐突な比較であるが)ウィトゲンシュタインが論理哲学論考の最後で述べている心境に似ていると思った。たしか、私は何も成し遂げてはいない、分析的手法はなにも新しい知識を生み出さない。命題の意味を整理し明確かするだけだ。読者諸君は「私のかけたはしごを上ったら、はしごを蹴倒して」壁を乗り越えて欲しいというような文章ではなかったかと記憶する(怪しげな記憶だが)。

カントの有名なことば、(個人の格律が普遍的な規則に一致する様に行動せよ)は実質的には何も示さない。カント自身が何回となく注意している様にそれば「形式」なのである。

といって、出来ないというのでもない。この書ならびに「実践理性批判」のあとに続く「人倫の形而上学」の法論とか徳論では内容を示す試みがなされているのだろう。もっとも下拙はこの著書は未読である。なお、この書は現代では広く読まれてはいないようだ。例えば日本ではカント全集でなければ読むことが出来ないようである。

 

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