三十台と思しき背広姿の男が店に入ってきた。冷凍ボックスのような大きなバッグを手に提げている。外側全体は冷凍ボックスのように銀紙で覆われている。時々現れてこの店で小憩していく男である。このビルの中にある診療所に立ち寄って尿とか血液の検査サンプルを回収していくのである。
店の常連で毎日のように現れる。禿頭や下駄顔のような常連とは顔なじみである。彼は隣のテーブルの席に銀色に輝くクルーケースを置いて腰を下ろした。
「商売繁盛だな」と禿頭が声をかける。
「どこも検査検査ですからね。大儲けでしょう」
「それであんたのところも儲かるわけだろう」
「違いない」と彼は油で光る頭髪をそっと撫でた。「なにか話がはずんでいるようですね。奥さんまで参加して」
「うん、いまセンギョウシュフの話をしているところさ」
「え、なんですか、センギョウシュフって」
「専業主婦の男性版さ。彼にも聞かしてやっていいですか」
第九はにやにや笑って「聴衆が増えれば張り合いがありますからね」というと先ほどからの話を続けた。
下駄顔が男の為に言った。「この人が会社に勤めていたころ、エレベーターのなかで卒倒したんだ。そこで現れたのが産業心理士だ。彼女のカウンセリングの話だよ」
「それは興味がありますね。おなじ医療産業の話だし、聞いておけば何か参考になるかもしれませんね」
禿頭は第九のほうを向くと、それでどうしました、と聞いた。
「十八階の事務所から階段で降りるときに足を踏み外して転落したんです。その時に脚の骨を折りましてね」
「首の骨でなくよかったね」
「そうです。まあ不幸中の幸いでした。それで三か月ほど入院しました。退院しても松葉杖がないと歩けない。松葉杖じゃあ十八階までは登れないから当分自宅でリハビリですよ」
「ちょっと待ってください」と新入りの背広姿の男が割り込んだ。「どうして十八階から階段で降りるんですか」と怪訝そうに聞いた。
「いや、発端をお話ししていなかった。なんでもエレベーターのなかで突然失神してから、怖くてエレベーターが使えなくなったんですね」と和服の夫人が確認した。
「そうなんです。それで十八階の事務所まで階段を上り下りしていたんです」
「そりゃ途方もない話だ。それで心理カウンセラーの話が出てくるんですか」
「ええ、会社が社員の健康管理のために契約している大学病院がありましてね。そこの心療内科に通ったわけです」
「それは義務だったんですか、必要だったんですかね」
「さあ、どうでしょうかね。意味がなかったかな。だけど会社の命令だったから。会社はなにか見つけて私を休職かなにかにして、追い払いたかったんじゃないでしょうか」
「なんていう会社なんですか。お差支えなければ」と若い男が言った。
第九が会社の名前をいうと、有名な会社だな、最近新聞でブラック企業だなんて記事が出ていた。労働組合が五つもあるんですって」
「そう、その会社なんですよ」
若い男は頷いて「それで分かった。なんで心療内科が出てくるのかと不思議だったんですが」