老人はしばらく口を噤んで思案するていであった。
「実はね、私の姉はタケコというんですよ」と呟いた。「あなたの夢に出てきたタケコはどんな字かな。もっとも」と老人は笑った。「夢の中だから字が出てくるわけもないな」
「そうなんですね。しかし不思議なもので私はバンブーの竹を充てていたらしい。あなたのお姉さんはどんな字ですか」
老人は手ぶりを交えながら指で字を空中でなぞる様にしながら、多いという字に計画の計ですよ」
「しかし同じ名前とは妙ですね」
「妙と言えば妙、妙でないと言えば妙でもないな」
「どういうことですか」
「実はね、あなたの夢は私の記憶と完全に一致する」
第九はポカンとして老人を見返した。
「もっとも、何というか、二次記憶でね。風呂に入っていたのは私の兄なんですよ。私は小学生で千葉の田舎に疎開していてね。兄からあなたの夢とそっくりな体験談を聞いた」
老人はテーブルのマグカップを覗き込むと、喉から変な音を出して残っていたコーヒーを飲みこんだ。
「二次記憶というのはどういうことです」
老人は第九を流し目で見た。「日曜日の休みごとに父や兄が田舎に来るわけですよ。主たる目的は勿論疎開中の家族、母やわたしですが、とのリユニオンなんだが、その週に東京であったことなどを話してくれる。その時にあなたの夢とそっくりなことを話したことがあった。だから伝聞が自分の記憶として定着したのでしょうね。もっともすっかり忘れていました。あなたの話で蘇ってきたわけです」。老人はどうだ、分かったかというように第九を見つめた。「後楽園の高射砲陣地云々という話もその時にしていましたな」
「そうすると、お父さんやお兄さんやお姉さんは疎開しなかったんですか」
「疎開したのは子供だけですよ。それに当然子供だから世話をする母親や女中も一緒に疎開した」
「どうしてですか」
「だって、親父は勤めがあるから東京を離れるわけにはいかない。兄は大学生でね、学校を休めない」
「お姉さんは?」
「姉は高等女学校の生徒でね、学徒動員で両国の国技館で風船爆弾を作っていたんですよ」
「風船爆弾?」と第九は戸惑った。
「九十九里あたりからとばしてね。偏西風にのってアメリカ大陸に爆弾を落とす計画でした」
「成功したんですかな」
「何発かはカリフォルニアとかアリゾナあたりまで飛んで行ったらしい」
「しかしどうしてそんなことが僕の夢に現れたのかな」
「聞いちゃったんですね、という名文句がありましたな。私の深層記憶が漏れ出して飛翔したのかもしれませんな」と老人はわけのわからないことを言った。
「は?」
「あるいは兄貴の記憶が飛翔したのかな。兄貴はとっくの昔に死んでいるから、そうすると霊界通信ということかな」
「霊界通信というと、あのスウェーデンボルグのですか」