穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ウィトゲンシュタインの妖気

2017-08-23 10:44:10 | 哲学書評

天一坊というからには世人を迷わす人気というか影響力のことに触れなければならない。

20世紀前半のいわゆる論理実証主義者、ウィーン学団の人たちがウィトゲンシュタインを同じ考えの持ち主と考えて執拗に運動に誘ったことは有名だが、論理哲学論考には科学哲学の科学のカのケもない。前から不思議に思っていた。おそらくその辺がウィトゲンシュタインの妖気なのだろう。

 ウィトゲン石もその辺は迷惑していたようで最後まで彼らには同調しなかったようである。彼には不思議な放射能があって、周りの学者たちの頭脳の働きまでハレイションを起こさせていたのだろう。妖気と言わずして何と言おうか。

 ところでRouteledge版にあるB.Russelの序文にはシンボリズムの原則から出発してとあるが、このシンボリズムとはフレーゲのことなのか。大文字でかいてあるから特定の人物の学説と思われるが、Oxfordの哲学事典にはsymbolismという項目はない。日本語の訳では記号体系の諸原理なんてのがあるが、なにを、誰を指すのかな。


二十世紀哲学界の二人の天一坊

2017-08-23 00:23:59 | 哲学書評

なんといっても、ハイデガーとウィトゲンシュタインであろうか。これはハイデガーの著書に出典があるのか記憶が定かではないのだが、プラトン以来の西欧形而上学を否定したと威勢のいいことを言ったらしい。本人が言ったのか、本屋の帯的惹句だったか、あるいはハイデガー研究者の言葉だったのかもしれない。要するにプラトン以来の形而上学には存在に対する問いがないとか言ったんじゃないのかな。つまり前ソクラテスの哲学に戻れということらしい。アナクシマンドロスとかヘラクレイトスとか。そこで怪しげな古代ギリシャ語論が援用される。つまり自分は新しい形而上学の創始者であると天一坊的な気取りがある。

 さて、ウィトゲンシュタインであるが、大分前に論理哲学論考(いわゆる前期の業績)を読んだ大分薄れた記憶であるが、彼が形而上学と言ったどうかははっきりしないが、「よって(結論として)哲学的命題は存在しない」とか引導を渡している。記憶がはっきりしないので論考を引っ張り出して突端を少し拾い読みしたのだが、これは彼流の形而上学にすぎない。哲学的命題はすべて無意味と言っているのだから哲学という概念に内包される形而上学も全否定されるはずなのだが。論証不能、説得力に欠ける大前提が最初に来る(1.***)。もっとも、数学でも公理というやつは証明の責任を免れているが、それでもそれは万人が受け入れられるものである(各時代の、パラダイムの変更前は、という意味合いでね)。ところがウィトゲンシュタインの最初の御宣託には証明も説明もない。いろいろ後世の研究者が後講釈をするようだが本当かなという疑念がある。

 ま、この二人が二十世紀西欧哲学の天一坊であろうか。なんだか怪しげな理屈で叱られそうだな。