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言の葉

2008.11.28 開設
2022.07.01 移設
sonnet wrote.

2009年05月18日 | 宮崎縣かるた

 さくら咲いたよ 牧馬(ママ)と母智丘 (さくらさいたよ まきばともちお)

 

かるたには「諸県郡(もろかたぐん)にある二つの市」と記されているが、牧場(まきば)は小林市細野、母智丘(もちお)公園は都城市横市町になる。
(「まきば」がかつて「牧馬」の表記だったのか小林市観光協会に問い合わせたところ、そのようなことはないということで誤植と判断した。)

牧場の桜は、1908年(明治41年)に国立種馬所(しゅばしょ)がこの地に軍用馬を育成するための分厩(ぶんきゅう)所を開設し、その時植樹されたものがはじまりだった。
昭和初期までは約2Kmの桜並木が続き、「軍馬の桜」として九州一の桜の名所と謳われ、当時は遠く門司からの花見列車もあったほどの盛況だったそうである。
終戦後軍用馬育成は廃止され、地元の商工会議所はこの桜の名を「軍馬の桜」から「まきばの桜」へと変更した。
昭和30年代には桜の多くが寿命を迎え、市や市観光協会などによって補植や植え替えが重ねられ、ピーク時は3,000本を超えていた。
しかし連作を嫌うソメイヨシノは思うように育たず、いつしか老木と若木だけの寂しい姿になり、毎年行われていた桜まつりも1973年に中止となってしまった。
1985年、市は「まきばの桜」を復活させようと再び植樹、土壌改良等再生に取り組み、昨年35年ぶりにに「まきばの桜まつり」が復活。
まだまだ若木だが、ドライブしても延々続く桜のトンネルは見事である。

母智丘公園の桜は「日本さくらの名所100選」に選ばれており、ソメイヨシノ、ヤエザクラ、ヤマザクラなど約2600本を数える。
こちらは1869年(明治2年)、母智丘神社を建立した当時の都城地頭三島通庸が植えたのがきっかけで、1927年(昭和2年)にさらに1000本が寄進され、現在に至っている。
神社は丘の北端にあり、その参道の約2キロが桜並木になっている。
大木が狭い間隔で花のトンネルを形成し、圧倒される美しさである。
トンネルを抜けながら見上げる桜も一興だが、神社から眼下に広がる桜の帯は圧巻。
http://www.yado.co.jp/hana/miyazaki/motio/motio.htm


2009年04月23日 | 宮崎縣かるた

 古墳でゆかし 西都原 (こふんでゆかし さいとばる)

 

宮崎県のほぼ中央に位置する西都市。その市街地の西方丘陵に、東西2.6Km、南北4.2Km、(東京ドーム233個分)にわたって日本最大級の古墳群「西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)」がある。
大正元年(1912年)、日本で初めて本格的学術調査が行われた地としても有名で、昭和44年(1969年)までは、わが国第一号の風土記の丘(西都原風土記の丘史跡公園)として、古墳と自然が調和した歴史的景観を維持保存する為の整備が行われた。
これまでの発掘調査で、3世紀半ばから7世紀前半に築造されたと推定されている。
前方後円墳、円墳、方墳、地下式横穴墓、横穴墓など、311基のさまざまな古墳で構成されているが、古墳の大部分はいまだに発掘されておらず、多くの謎を残している。
 
詳細は「特定史跡公園・西都原古墳群」のサイトを。
http://www.mppf.or.jp/saito/

加えて西都原は花の名所としても有名で、春は30万本の菜の花、2000本の桜、秋のコスモスは300万本と九州最大規模で、多くの観光客が訪れている。

現代ひむかかるたでは『こ』で詠まれている。
http://www.miyazaki-c.ed.jp/himukagaku/karuta/ko/index.html


2009年04月13日 | 宮崎縣かるた

 景行天皇 腰かけの石 (けいこうてんのう こしかけのいし)

  

景行天皇は第12代の天皇で、自ら熊襲(くまそ)の征伐に九州に赴いたと伝えられている。
熊襲とは九州南部に本拠地を構え、4世紀から5世紀にかけて大和朝廷に抵抗し反乱を繰り返していたとされる一族である。
景行12年から19年、九州に遠征して熊襲を平定し、さらに皇子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に命じて同27年に討伐させたと、日本書紀に記されているそうである。

その平定を終えての帰還の途中に日向の夷守(ひなもり)、現在の小林市細野に立ち寄られたと言われている。
この地の豪族の歓待を受けて滞在し、その時に腰掛けられた石が村人達の手によって古来より保存し伝承されてきた。

また、その滞在の間に子湯県(現在の児湯郡)に旅をされ、「是の国は、日の出づる方に向けり」と言われ、以来「日向(ひむか)」と称するようになったとも伝えられている。



2009年03月30日 | 宮崎縣かるた

 串間で蒲璧 見つけられ (くしまでほへき みつけられ)

 

文政元年(1818年)、日向国那珂郡今町(現在の宮崎県串間市)で農家の佐吉が畑の土中から古い石棺を発見した。
棺は弥生時代のもので、その中には中国が周時代(紀元前11世紀~)だった頃の『璧(へき)』が入っていた。

周の時代、天子は諸侯に領地を分け与えて国家を安定統一し、その権威を示すシンボルとして硬玉製の爵章を授けていた。
周の官制が書かれた書物「周礼」によると、「以玉作六瑞以等邦国。王執鎮圭。公執桓圭。侯執信圭。伯執躬圭。子執穀璧。男執蒲璧。」とあり、その地位は、
王の位は「鎮圭(ちんけい)」
公爵の位は「桓圭(かんけい)」
侯爵の位は「信圭(しんけい)」
伯爵の位は「躬圭(きゅうけい)」
子爵の位は「穀璧(こくへき)」
男爵の位は「蒲璧(ほへき)」
と、階級によって異なっている。
上位4級は「圭」、下位2級は「璧」で、圭は上が尖り下が四角形のもの(斧形)、 璧は薄い環状で中央に穴のあるもの(ドーナツ形)。
材質はいずれも鉄より強靭なほどの硬玉(ガラス製)と言われている。

かるたは『蒲璧』で『子爵の印』とあるが、前述の「周礼」の一文から「蒲璧」であるならば男爵の位、「子爵の印」なら穀璧とならなければならず、いろいろ調べた結果、どうやら串間市で発見されたのは「蒲璧」ではなく、「穀璧(子爵の位)」が正しいようである。
子爵・男爵の璧は文様が異なり、「穀璧」は穀物をモチーフとして「生命の源」を表し、「蒲璧」は植物の蒲(がま)を文様としている。
蒲はその時代蒲団(ふとん)の芯や蓆(むしろ)の材料に利用され、すなわち「休息・暮らし」を象徴しているのだろう。
佐吉はこの璧を家宝として所持していたが、明治になっての孫の代で加賀の前田家に譲渡され、現在は東京の前田育徳会の宝物館に保管されている。
そのレプリカは、西都原考古博物館で見ることができる。
http://saito-muse.pref.miyazaki.jp/home.html

「漢倭奴國王(かんのなのわのこくおう)」と刻まれた有名な「漢の金印」は西暦57年のものだが、それよりはるか以前の周時代の物が日向の国で発掘されていたのだ。
その当時から海を渡って大陸と交流していたのではないか。戦に敗れた周の豪族が亡命してきたのではないか。否、串間地方に周王朝から直接子爵の位を賜った者がいた…。
古代史研究者間でも諸説あり、未だ確定的なものはないようである。
ともあれ、今さらながら宮崎の歴史の深さに驚かされる。


2009年03月12日 | 宮崎縣かるた

 霧島山は一五七四(米) (きりしまやまは いちごなし)

 

霧島屋久国立公園は、宮崎県から鹿児島県屋久島まで広域にまたがる国立公園である。
昭和9年(1934)に霧島地域が日本で最初に霧島国立公園として指定され、昭和39年(1964)に錦江湾地域(旧錦江湾国定公園)・屋久島地域が編入された。
かるた裏面の解説はまだ「霧島国立公園」となっている。

霧島地域には大小20座以上の火山と大小の湖沼群、高千穂河原やえびの高原、生駒高原、霧島温泉郷などがあり、ノカイドウやミヤマキリシマ、コスモス、ススキなど、四季の変化に富んだ一大観光地である。
かるたに「霧島山」、裏面の解説にも「その中の名山」とあるが、この名称の固有の山はない。
北海道に大雪山が無く大雪山系であるのと同様、ここ一帯の山岳群が総称して霧島山と呼ばれ、日本百名山、日本百景のひとつに挙げられている。
一五七四(いちごなし=苺なし)という語呂合わせで覚えやすくしてあるのは、霧島山系を代表する霊峰高千穂峰(たかちほのみね)の標高である。

現代ひむかかるたでは、えびの高原が『さ』で詠まれている。
http://www.miyazaki-c.ed.jp/himukagaku/karuta/sa/index.html